硲153番地
サンクチュアリ
端緒②


 夏生は一つのことわざを思い出した。
 類は友を呼ぶ。
 昨日の今日で再び桜に会うことは仕方ないと言える。桜の紹介で宿坊と呼ばれる場所に泊まることができたのだから。

 宿坊には夏生の記憶にある全ての快適成分を掻き集めても足りないほどの快適さが在り来たりな顔で存在していた。
 最初に案内された広々としたお風呂では、同じタイミングで入ろうとしていた女の人が戸惑う夏生に押し付けるわけでもなく入り方を丁寧に教えてくれ、なおかつ各自で用意しなければならないシャンプーや石鹸も話のついでに分けてくれた。
 食事は解放されている厨房で宿泊者たちが自炊しており、ふらふらと顔を出した夏生はただ子供というだけで必然のようにごちそうしてもらえた。代わりに後片付けを手伝えば、偉い偉いと褒められる始末だ。
 そこには人の優しさが当たり前の顔をして存在していた。温かさが胸に沁みた。
 用意された部屋の畳は青々と清々しく、布団は当たり前のように清潔でふかふかだった。
 染み入るような静けさの中、夏生は朝まで夢も見ずぐっすりと眠った。
 いまだかつて経験したことのない爽快な目覚めは、夏生に小さくも大きな変化をもたらした。
 何もかも桜とタエのおかげだ。わかってはいても夏生の心中は複雑だった。

「宿坊に泊まってるの? どんな感じ? 私も今度泊まってみようかな」
 初めましての挨拶の後、菜乃佳と名乗った桜の友人は桜同様のんびりとした口調で興味深そうに尋ねてきた。
 桜も美人だがこの菜乃佳も美人だ。それでいて二人とも自分の容姿には興味はないようで腹立たしい。夏生などどれほど望んでも美人には生まれなかったというのに。

 母親が夏生の父親と別れた原因は夏生なのだ。
 父親に整形の過去を隠して結婚した母親が生んだ娘は、母に似ても似つかない顔をしていた。様々な誤魔化しもやがて尽き、両親に会わせたがらない母親に代わって興信所が父親に彼女の両親の写真を公開、ひた隠しにしていた母親の整形が発覚、その信用は見事に砕け、呆気なく離婚に至った。整形の過去を隠して結婚した母親も母親だが、結婚相手を見た目で選んだ挙げ句見た目で離婚した父親も父親だ。
 愛し合っていれば整形くらい、などとは夏生にしておめでたい思考と言わざるを得ない。

 桜に連れて来られたデパートには、その友人である菜乃佳が待っていた。
 夏生はデパートに入ったことがない。煌びやかな店内は気後れよりも恐怖が勝った。場違いなどという生易しいものではなく、夏生は自分を異物のように感じた。
 買い物に付き合ってほしい。できればアドバイスしてほしい。アルバイト代として夏生の分の洋服も買うから。
 桜にしては少し早口でわりと必死めに頼み込まれ、夏生はどういうつもりなのかと訝しみながらも、「一宿一飯の恩義」と心で唱えながら彼女に連れられるがまま一緒に来た。
 俯きがちに足を踏み入れた最初の店はシンプルで上品なデザインの服を取り揃えていた。
 そこで夏生は桜の必死の懇願の意味を知った。
 桜の選ぶものは桜には似合わないわけではないものの、どこかしっくりこないものばかりだった。
 桜はわりとはっきりした目鼻立ちでシャープな印象の美人だ。清楚といえば聞こえはいいが、表情がなければ近寄りがたいクールビューティーな一面を持つ。
 それなのに、彼女が選ぶ服はどれもキュートやラブリーと形容したくなる色やデザインで、素がいいから似合わないということはないものの、似合っているかといえば微妙と言わざるを得ない。お店の人の取って付けたような「お似合いですよ」がそれを如実に物語っている。
「それは、桜には……うーん、ねえ、夏生ちゃん」
 助けを求めるように桜の友人に振られ、夏生は仕方なしにすでに春物が並ぶ中から同じようなデザインでありながら色とラインが違う服を選んで桜に渡す。
「あれ? もしかして似合ってる?」
 不思議そうな顔で鏡の中の桜が呟く。
「似合ってる。すごく似合ってる」
 その背後からのぞき込んでいる菜乃佳は少し興奮気味だ。
「いつもならこういうの似合わないのに……どうして?」
 似合わない自覚はあったのか、と夏生は呆れた。
 自分の好きなデザインの服が必ずしも自分に似合うとは限らない。似合うようカスタマイズする必要があることを美人ではない夏生は知っている。
 夏生は服など滅多に買ってもらえなかった。それを工夫しながら自分なりにカスタマイズして同じ服に見えないよう、成長と共に着られなくなる服はなんとかサイズが合うよう、細かく手を入れて着ていた。母親が簡単に捨てる、まだ着られる服をこっそり拾っては、元がわからないようリメイクしたりもする。
「夏生ちゃんってすごくセンスいいのね。私の服も選んでもらっていい?」
 この菜乃佳も菜乃佳なのだ。柔らかな雰囲気の菜乃佳が選ぶ服は、シャープな雰囲気の桜にい合いそうなものばかりだ。この二人は互いに自分ではなく相手の似合う服を選んでいるのかと思うほど、自分のことを知らなすぎる。
 夏生はほんの少し楽しくなって、ぱっと目に付いた服を菜乃佳に渡した。
「これ? こういうのは……」と訝しそうな顔で菜乃佳が鏡に向かってその服を躰にあてる。菜乃佳の目が驚いたように見開かれていった。
「なんで? 似合ってる」
 菜乃佳と桜がすごいすごいと興奮している。なぜか店員まで一緒になって興奮気味だ。
「夏生ちゃん、スカートも一つ欲しいの」
 桜に請われ、夏生はスカートが並ぶコーナーでざっと物色し、そのうちの一枚を桜に渡す。桜に似合いそうなシャープなデザインに彼女が好きそうな柔らかな色味を選んだ。
 値段を気にせずに服を選べる自由は夏生を浮き立たせた。これが自分の服だったらきっともっと楽しいだろう。そう思った途端、胸が重くなる。
「すごい。私と桜が同じお店の服を着ることなんてないと思ってた」
 確かに菜乃佳の言う通り、桜と菜乃佳では似合うものが真逆に違う。菜乃佳はほんわりした癒やし系と呼ばれるような美人だ。その菜乃佳に勧めたのは真っ黒なブラウスだ。生地が柔らかで袖にボリュームがあり、一見シックに見えて着ると柔らかに見えるようなデザイン。
 どんなタイプの人にも似合う服を取りそろえているこの店が秀逸なのだ。値段が高いだけのことはある。
「夏生ちゃんもアルバイト代として好きなの選んで。できればこのあと靴も選んでほしいの」
「確かに靴はもう少し増やした方がいいね」と菜乃佳が桜の足元を見た。華奢なパンプスは桜に似合っているが、いかんせん寒そうだ。
「でしょ。ブーツ買わないとさすがに寒くて。昨日やっと時間が取れてタエさんと一緒に見てきたんだけど、もう春ブーツも出ていてどれにしていいか悩みすぎたら、タエさんが痺れを切らしちゃって」
「シュウさんは?」
「コウさんと一緒にそよかぜ園。なんだか建て替えないとダメとかで。なんだっけ、耐震? そんなこと言ってた」
 それを聞いて夏生はそよかぜ園を思い浮かべる。確かに古い木造の建物だ。大きな地震が来たら倒壊するかもしれないと思うくらいには古い。
 夏生は何度か児童相談所に保護され、その時々で定員に余裕がある児童養護施設に一時入所したことがある。その中でもそよかぜ園はずっとこのままここで暮らしたいと思うほど、居心地のいい場所だった。
「そっか。ねえ桜、コートはいいの? ってもう今更か」
「今年はもうこれ一枚でいいと思って。でも少し寒いかな」
 桜が着ているのは黒のトレンチコートだ。ウエスト部分がシェイプされている綺麗なラインのコートは裏地が特徴的なタータンチェックで夏生が知る限りかなり高価なものだ。
「中にインナーダウンとかカーディガン着たりストールで調整すれば?」
 インナーダウンは桜のお気に召さないらしい。少し眉を寄せてうんうん唸っている。「ストールは落としちゃいそう」と呟いているあたり、ぽわぽわ生きている桜らしいと夏生はひねくれたことを考えた。
「夏生ちゃん、カーディガン選んでもらえるかな。できれば可愛い感じの」
 お店の人がすかさず春ニットのコーナーに誘導してくれる。その中から夏生は真っ白なカーディガンを選んだ。触り心地がよく薄手なのにあたたかい。
「カシミアだ。薄いのにあたたかい。夏生ちゃんも一枚どう? アルバイト代として」
 ちらっと見えた値札には五ケタの数字が並んでいた。到底夏生が買えるような代物ではない。それでも、そのとろりとした手触りは忘れられそうになくて、生地を撫でる夏生の手はミントグリーンで止まった。
「それもいい色だね。夏生ちゃんに似合いそう。ねえねえ、時々交換する?」
 夏生は無意識に頷いていた。夏生はどこかぼーっとしながら目の前にあるニットでできたグレーと白のレース、コットンパールでできたコサージュを手に取り、桜の白のカーディガンを広げ、その上の少し肩寄りの位置に載せた。
「うわあ、かわいい。私にも似合うかな」
「似合うと思う」
「夏生ちゃんにも似合いそう」
 そう言った桜がミントグリーンのカーディガンの上にも同じように載せた。着てみたい。夏生の中に懇願にも似た思いが湧き上がった。
「本当にいいの?」
「気に入ったなら着てもらえると嬉しいな。できればまた洋服選んでほしいの。私ね、秋に着の身着のままあの家に来たから洋服が全然足りてないの。このあと春や夏にも一揃え買わないといけなくて」
 夏生は信じられない思いで桜の顔をまじまじと見た。どういう状況で桜みたいなお金持ちそうな女の人がそうなったのか。着の身着のままとはまるで夏生のようだ。
「下着なんて三つをローテーションしてるし」
 小声の桜に菜乃佳が驚いたように言う。
「桜あの後買ってないの?」
「さすがにシュウさんと一緒には買いづらいよ。一人で入るには下着売り場って少し勇気が要るでしょ」
「じゃあ今日はそれも買わないと」
 呆れたような菜乃佳に桜が少し情けない顔で「お願い」と言った。

 結局夏生は、カシミアのカーディガンのほかに下着やソックスなどのインナー類を三組、ローファーを一足、シャツやカットソーなどを二着ずつ、パーカーとスカート、デニムパンツを一着ずつ、何軒かの店をはしごして桜と菜乃佳に買ってもらった。一体夏生にいくら使ったのか。考えるのが怖くて夏生は途中から値札を見ていない。
 桜はそれ以上に服や靴を買い込み、菜乃佳は程々に欲しいものを買っていた。桜の荷物はデパートの配送サービスを依頼した。そのくらい大量に買い込んだのだ。夏生分も一緒にと桜が言うのを夏生は断った。自分で持ちたかった。こんなに自分だけのものを買ってもらったことなどない。夏生は嬉しくて夢みたいで絶対に手放したくなかった。
 なにより、それまでブラジャーを持っていなかった夏生に桜と菜乃佳は顔をしかめ、ブラジャーを買ってくれたのだ。最低でも五枚は買えという二人に、夏生は三枚で十分だと固辞し、吟味に吟味を重ね、本当に気に入った三枚を選ぶことができた。たいした膨らみのない夏生だが、周りが当たり前のように身に着けている中、自分だけがまだ着けていないことに恐怖にも近い引け目を感じていた。しかも上下セットだ。菜乃佳が「下着は上下セットが基本」と店員と一緒になって熱弁していた。

 真っ赤なハートにバレンタインデーと書かれたポップがそこかしこに散るネクタイ売り場で、桜と菜乃佳は自分の服を選ぶより時間を掛けてそれぞれ一本ずつネクタイを買っていた。桜はもちろん秀のものだろう。菜乃佳は「お礼だから」と誰に言い訳するでもなく呟きながら、斜めのストライプ柄のネクタイを一本選び出していた。
 それを夏生はエスカレーター脇にある休憩用の座り心地のいい肘掛け椅子に座りながら見るともなく眺めていた。最初に感じた恐怖にも似た気後れはいつの間にか消え去り、デパートという一種独特な雰囲気にすっかり慣れてしまっている自分をぼんやりと感じた。足元には大量のショップバッグ。商品を買えばタダでもらえる袋すら売り物のように立派だった。

 少し遅めのお昼はローストビーフだった。夏生は生まれて初めて口にした。こんなにも柔らかくておいしいお肉があったのかと、感動で涙が滲みそうだった。たった一食で五千円もする。夏生には信じられない値段だった。せっかくだから贅沢しよう、と桜と菜乃佳がこの店に決めた。
 夏生に外食の経験はほとんどない。幼い頃に一度か二度、ファミレスに行ったことがあったかもしれないという曖昧な記憶しかない。
「夏生ちゃん、高校入試は?」
「先週終わった」
 すでに合否は出ている。夏生は合格していた。
「公立?」
「そう。でも、たぶん行けない」
「お金?」
 そのものズバリを聞いてくる桜の無神経さに夏生は苛立った。桜が今日一日で使ったお金があれば、夏生は楽に高校に入学できる。高校生になればアルバイトもできるが、今の夏生では小柄すぎて年齢を偽りアルバイトすることもできずにいる。
「就学支援金と奨学給付金って知ってる?」
「なにそれ」
「支援金は授業料を免除してくれるの。給付金は授業料以外にかかる費用を援助してくれる。区役所に行けば色々教えてくれるはず。そよかぜ園に訊いても教えてくれると思う」
「なんでそんなこと知ってるの?」
「私も申請したから。私孤児なの」
 訝しむ夏生に、桜はごく当たり前のことを言うようにさらっと告げた。
「親がね、子供の頃に二人とも死んでいるの」
 驚く夏生に桜はほんの少しの笑みを浮かべた。
「私の場合は、施設ではなく父親の知り合いだった人が引き取ってくれたの。養女にはなっていなかったのに、生計を共にしているってことで申請が通らなくて。おまけに申請したことがあっさり発覚して頭ごなしに怒られちゃうし」
 菜乃佳も知っているのか、黙って桜の話を聞いている。
 夏生は桜のことをいいところのお嬢さまかと思っていた。なんの苦労もなくのうのうと生きている頭の悪い女だと思っていた。
「私ね、もう一刻も早く自立したかったの。それを悉く阻まれるからついに身一つで逃げてきたのよね」
 ふふ、と桜が小さく笑った。菜乃佳も何かを思い出すように笑っている。笑うようなことなのかと夏生は呆気にとられた。
「シュウさんが逃げる場所を用意してくれたの。菜乃佳やコウさんが手伝ってくれて、だから逃げ出せたの」
 夏生ははっとして桜を見た。逃げる場所。夏生も桜に言われた言葉だ。
「きっと他人から見たら、私は自分勝手で恩知らずな女に見えるんだろうけど……私にとっては生きるためにどうしても逃げ出さなければならなかったの」
 夏生もだ。どうしても逃げ出さなければならなかった。そして、逃げ出したことをまだ気付かれるわけにはいかなかった。
「成人するまではどうしても子供は我慢しなければならないでしょ。でも子供にだって自由に生きる権利はあるのよ」
 自由に生きる権利。誰がそれを与えてくれるのか夏生にはわからない。今の桜の言葉で、もしかしたら、と思った。
「自分で選べるの?」
「自分が選ばなくて誰が選ぶの?」
 桜はのうのうと生きているだけの女ではなかった。その目に宿る意思は夏生は見てきたどんな人よりも強く、その口調はそれまで同様のんびりしているのに毅然と聞こえた。
「親からも逃げられる?」
「夏生ちゃんがそう決めたなら」
 桜の目は揺るぎなかった。誤魔化しもない、真っ直ぐな目だった。夏生が知る大人でこんなふうに真っ直ぐな目で夏生を見た人はいない。助けてほしいと訴えようとする直前で、誰もがすっと目を逸らすのだ。
「私に、お金を貸してください。必ず返します。私、高校に行きたい」
 夏生は意を決して言った。桜の目が真っ直ぐだったから言えた。桜は目を逸らさなかった。
「いいよ」
 あまりに軽く桜が請け負うから、夏生の覚悟までがうっかり軽くなってしまった。やっぱりこの女は嫌いだ、と夏生は思った。