月影奇譚
第一章 結んで
06 おでこと爪切りと昼寝


 よく「ペットを飼うと結婚しなくなる」とは聞いていた。本当だなぁ、とつくづく思う。タロンがいればあらゆる感情が満たされる。
 彼の場合はさらに手がかからない。なにせ自分で足を洗い、お風呂に入るほどの賢さだ。唯一ネクタイだけは私が締めているくらいで。
 欲しくてたまらなかった穏やかで満たされた日常がこのままずっと続けばいいと願うほど、今が一番幸せだと思う。

 ただ、残念なことにタロンには愛くるしさが一切ない。頼りになるし心強いけれど、こう、犬特有のかまって感が一切ない。首を抱きしめさせてはくれるけれど、お腹は触らせてくれない。そもそも私にお腹を見せたことがない。祖父母の愛犬は、飼い主でもない私にすらしっぽを振ってお腹を見せてかまってアピールをしていたのに。

 無性にタロンのお腹をわしわし撫でたくなった。そうっと立ち上がった瞬間、気配を察したタロンがあっという間に逃げていく。賢すぎて嫌になる。



 そんなことを先日お隣の息子さんに縁側でアイスコーヒー片手に話した。さすがにお風呂も自分で入るとは言えないけれど、たらいで足を洗うのは祖父母も知っていたことなので話してもいいだろうと口にすれば、お隣さんも知っていたのか驚くことなく相槌を打っていた。

 梅雨が明けようかという頃、ようやく家の周り一帯がウッドチップで埋まった。それでも根性のある雑草が時々生えてくるのだからうんざりする。炎天下の草むしりは地獄だ。

「本当は梅雨前に終わらせたかった」
 雨が降って木屑が洗い流されるように下の土に沈むと、少しくらいの風であれば埃が立たなくなるそうだ。
 お隣さんは畑も田んぼも狩りも全てを行っている専業農家だ。忙しい最中運んでくれたことに感謝こそすれ文句はない。
「雑草が生えなくなるだけでも十分です。本当にありがとうございます」
 ほっとしたように頬を緩めたお隣の息子さんの手にあるグラスが、からんと涼やかな音を立てた。

 で、タロンのお腹を撫でてみたいとの野望を語ると、お隣の息子さんからも「腹は無理だな」という無情の一言をもらった。
「やっぱりそう思います? タロンが誰かに弱みを見せるとは思えないんですよね。たとえ気を許した飼い主であっても、彼は威厳を保ったままの気がします」
 それにあっさり同意された。
 私の傍らで伏せているタロンは、二人の会話が聞こえているはずなのに知らん顔だ。
 そもそも私もお隣さんも彼の飼い主ではない。強いて言えば、私は同居人、お隣さんたちは狩り仲間だろうか。タロンを飼い慣らせる人など存在しないような気がする。

 お隣の息子さんもタロンには一目置いているのか、犬に対する扱いというよりは人に対するものに近い。いちいち先の行動を言葉にして確認している。タロンが言葉を理解していることに気付いているのかいないのか。訊いて墓穴を掘りたくないので口を噤んでいる。最悪私の頭が疑われる。

 ぶわっと吹き付けた突風に髪が乱れる。慌てて額を抑えるも見られたらしい。
「おでこ、どうかしたのか?」
「ちょっとぶつけちゃって」
 そう言って誤魔化した。前髪を直しながら、しっかり貼られている肌色のテープを確かめるように撫でた。その含みのない労るような視線に別のものが含まれないことをどこか他人事のように祈る。
 大丈夫だとでも言うようにタロンの顎が膝の上にのった。



 梅雨も明け、照りつける陽射しが信じられないほど強い。標高が高い分太陽に近いのか、直射日光が皮膚に突き刺さる。照り返しもキツイ。
 おそらく似たような高さに位置しているであろう高原の避暑地のような爽やかな要素が見当たらない。確かにそよぐ風はひんやりして涼しいし、蒸し暑さもない。夜になれば気温がぐっと下がるおかげで寝苦しいこともない。ただ、殺人的な陽射しがそれら全ての要素をなかったことにするほど強烈で、家の中にいても日焼けしそうだ。なにせ庭木の葉が焼けて黒くなる始末だ。

 一人の気楽さ、誰にも見咎められないのをいいことに、手足を思う存分むき出して涼を取る。髪を無造作にまとめ、タンクトップにショートパンツなんて、子供の頃以来だ。

 ここを訪れるのはお隣さんくらいで、それも毎週水曜日と決まっている。煩わしいセールスや勧誘が一切来ない。
 タロンの狩りは毎週水曜日。朝のうちにタロンを迎えにきて、お昼過ぎにタロンを送りがてら、あの立派な門で足止めを食らう宅配便や郵便物を届けてくれる。「宅配便」と書かれた扉は宅配ボックスだと聞いて、古めかしく立派な門構えに現代事情が合わなすぎて思わず笑ってしまった。

 辺鄙なところに住んでいても、いまどきはネット通販があるおかげで家から一歩も出ることなく快適な生活が送れる。生ものだけは気を付けて水曜日の午前中指定で届けてもらうようにしている。タロンが気に入ったサーモンの冷凍便は半解凍されてしまうのが難点だけれど、解凍の手間がなくなったと思うことにしている。アイスクリームが食べられないことだけが不満だ。わざわざそのためだけに裏門まで歩いて、そこからタクシーに乗って一番近くのコンビニまで行く気にもならない。アイスクリームメーカーを買おうか悩む。
 このタンクトップとショートパンツもネットで買った。袖周りに付いたゆったりとした幅広のフリルがひそかに気に入っている。

 仕事に行き詰まり、なんとなく爪を切ろうと思い立つ。行き詰まると爪を切るか、歯を磨くか、珈琲を飲むか、お風呂掃除するか、そのどれかで気分を変える。提出期限が近いからと根を詰めすぎたせいで頭が回らなくなってきた。

 ふと思い付いて以前祖母からもらった風鈴を探す。マンションではその音が近所迷惑になりそうで仕舞い込んでいた。確か持ってきたはず。クローゼとの中に押し込めた、いつか使うけれど今は使わないものを詰め込んだ段ボールの中から探し出した。

 ガーデンチェアを使って軒下に吊すと、銅製と箱に書かれていた風鈴が澄んだ高い音をまろやかに広げた。思っていたよりも音が尖っておらず、耳に優しい柔らかな音に感動する。

 縁側のようなウッドデッキに日陰を見付け、網戸を開けて外に出る。虫に刺されそうで、急いでぱちんぱちんと手足の爪を切る。
 ここは虫が多くて困る。蚊ではなくブユという小バエのような吸血虫がいるらしく、強烈なかゆみに腫れ上がるそうだ。未だ刺されたことはないけれど、用心に越したことはない。

 聞こえてくる蝉時雨はアブラゼミの声じゃない。夏の終わりを告げるヒグラシがここでは夏の初めから鳴いている。それまでに刷り込まれた感覚からか、ヒグラシの声に涼を感じつつも、実際は暑い。

 爪を切っていて、ふと気になった。
「ねぇタロン、爪ってどうしてるの?」
 窓際から射し込む陽射しを避け、離れた日陰で床に直接寝そべって涼を取るタロンに爪切りを仕舞いながら声をかける。タロンは家の中で一番涼しい場所を知っている涼感センサーだ。無垢材の床は素足に気持ちいい。タロンのそばにしゃがみ込むと、すっと涼やかな風が首筋の後れ毛を撫でた。
 見せて、と言いながら前足を持ち上げると、にゅっと伸びるかぎ爪以外はそこそこ短く整っていた。
 犬の爪は飼い主が切らなければならなかったような……。うろ覚えの知識が頭に浮かぶ。

「今までどうしてたの? 誰かに切ってもらってた? お隣さんとか?」
 どれにも反応はない。
「自分でなんとかしてた?」
 これには頷きが返された。犬も猫のように爪研ぎするのだろうか。
 そういえば、タロンが歩くときに床に爪が当たる音がしない。まるで猫のように音を立てずに歩く。

 よく考えてみれば、野生の狼などは誰かが爪を切ってくれるわけじゃない。爪の音を立てて獲物を逃がすわけにもいかないだろう。思い返せば、カイロに住んでいたときに家に棲み着いていた臭い犬の爪を誰かが切っていたとは聞いたこともなかった。それは私が幼く気にしなかっただけなのか、憶えていないだけか。祖父母が飼っていた小型犬は歩く度にてちてち音を立てていたような……。狩猟犬と愛玩犬の違いだろうか。彼女はトリミングに行くたびに爪も切ってもらっていると聞いた。あ、確か肛門腺もだ。

「タロン、肛門腺ってどうしてるの?」
 それにぎょっとしたように身体を起こし、しゃがみ込んでいたせいで上からぎろっと見下ろされる。ちょっと怖い。怒ってる?
「そこは触れちゃいけないことでしょうか?」
 なんとなく怒っているような気がして下手に出れば、上から偉そうに頷き返された。この分だと発情期云々は絶対に訊いてはいけないことだ。犬にとってはデリケートな話題なのか。人に置き換えてみれば間違いなく大きなお世話だ。
 ちゃんと犬の飼い方を調べた方がいいのか。そのこと自体にもタロンはむっとしそうだ。祖父母が犬を飼っていたおかげで多少なりとも知識はあるものの、聞きかじった程度でしかない。
 そもそも、一般的な犬と同じように扱っていいのかがわからない。タロンは不思議な犬だ。それだけは間違いない。

 床に直接座ると目の前にはタロンの胸。お腹は無理でも胸はいけるだろうか。
「ねえ、タロン。ここに抱きついてもいい?」
 指先でツンツンと胸を突きながら訊いたそれに、一瞬ぐるっと唸りかけて、うぉふん、という中途半端な答えが返ってきた。たぶん、突くのはやめろ、抱きつくのはまあ許す、ってところだろうか。
 タロンの気が変わらないうちに、もふっと目の前の毛に抱きつく。頬に触れる柔らかさ。首の毛も柔らかいけれど、胸の毛はもっと柔らかい。お腹の毛はさらに柔らかいのだろう。いつか、いつか必ず!

 そこを通り抜ける微風があまりにも気持ちよく、ついそのままころんと床に大の字に寝転がる。タロンもすぐ隣に伏せた。なんだか狼の子供になった気分だ。伸ばしていた手足を縮め、胎児のように膝を抱え、タロンの傍らで丸くなる。
 ちりりん、と澄んだまろやかな音がまるで水面に滴る雫のように、心に柔らかな波紋を広げていった。