Whisper Voice
第一話パチパチと指先でキーボードを弾きながら、何気なく耳を通り過ぎていく雑多な音。
開け放した窓から入り込んでくるのは熱を纏い始めた風。それをはらむ薄手のカーテンが視界の端に映る。
一塊の文章を綴り終わり、小さく息をつきながらぐっと背を伸ばし、一息入れた。
雑多な音の中から、不意に耳に飛び込んできた、澄んだ綺麗なそれ。
耳を疑いながらも確信する。
間違いない。間違えるわけがない。
慌てて公式ホームページを検索し、直接電話をかけて確認する。
「お忙しいところ恐れ入ります。御社のラジオ広告のナレーターについてお伺いしたいのですが、お分かりになる方は……そうです、プロの方でしょうか? ……ああ、なるほど。いえ、それでしたら結構です。はい。ありがとうございました」
やっと見付けた。俺の耳なめるなよ、小鳥遊。
携帯電話と財布をひっつかみ、急いで玄関に向かう。
こんなに近くにいたなんて。どうして俺のところに来ないんだ。全部ひっくるめて抱えてやるのに。
────◇────
彼女に気付いたのはいつだったか。
おそらくゴールデンウィークよりは後だったと思う。そうだ、中間試験の時だ。
気付くと彼女を目で追っていた。
高校二年目の初夏。
最初は、俺だけが気付いているという優越感からくる興味だった。
同じクラスの後ろの席の女の子。クラス替え直後、夏休み明けまでは出席番号順に席が並ぶ。この高校は男女関係なく単純に名字の五十音順だ。高岡慧汰(たかおかけいた)の次が小鳥遊千結(たかなしちゆ)だったというただの偶然。
中間試験の真っ最中、三分の二以上の時間が過ぎれば解答し終わった者から退席していく中、なんとなくぼーっと席に座っていた。解き終わった答案用紙を裏返して。
殆どのクラスメイトが教室を出て行ったからこそ聞こえたのだろう。
「あっ、名前書き忘れるところだった」
真後ろから聞こえた、本当に微かな声。答案用紙を翻す音。名前を書き込んでいるらしき音。
あまりの衝撃にうっかり振り返りそうになった。
今まで聴いたこともないほど綺麗な声。少し高めの、透き通った、柔らかな響き。それでいて浮ついていないそれは、さながら声というよりは奏でられた音に聞こえた。
後ろの席の子、どんな子だった?
思い出そうにもまるで記憶にない。自己紹介の時に何を話していた? 誰といつも一緒にいる? 本当にまるで記憶にない。顔すら思い出せない。つまり印象にまるで残らない子だ。
再び後ろから答案用紙を翻す音が聞こえ、教室を出て行く際にじっくり観察しようと思っていたにもかかわらず、彼女もまた俺と同じように、席に着いたまま残り時間をやり過ごすことに決めたようだ。
それから、彼女を観察するようになった。
特に仲のいい子はいないらしい。いつもニコニコ笑っているせいか、いつの間にか輪の中にいて、自然と話し掛けられている。一見聞き上手に見える。
このクラスは全体的に穏やかな気質のヤツが集まっているようで、特に目立つヤツがいないかわりに、まとまりもない感じだ。担任の言うことにも、クラス委員の言うことにも、特に反発することもなく適当に従う。
よくよく見ていると分かる。小鳥遊千結は実は結構話している。ただ、声が小さすぎて相手に届いていない。口元は一生懸命動くのに、声が小さいせいばかりか、その口も小さいせいで、なかなか周りに気付いて貰えない。本人も半分諦めているところがあるようなのだが、それでも何かを伝えようと一生懸命小さな口を動かす。
女子特有のぎゃわぎゃわとした大きな声の重なり合う中では、小鳥遊の囁き声は掻き消えてしまう。声が届かないことにその大きな目を伏せ、肩を落とし、小さく溜息をついているのを何度も見た。
俺はその度に笑いを堪える。それは何とも微笑ましい光景に見えた。たとえ本人にとっては悔しいことであったとしても。
「慧、最近女子の塊見て笑ってるけど何?」
「ああ、見てると面白い子がいるんだよ」
「へぇ。誰?」
「教えるわけないだろう」
小学校からの腐れ縁の友人の目は、面白いものを発見したとばかりに見開かれた次の瞬間、その口もとににんまりとした嫌な感じの笑みが浮かんだ。頬杖ついた体勢から背を伸ばし、念を押すようにもう一度言う。
「教えない」
「上手くいったら教えて」
その一言に首を傾げる。
「上手くいくも何も、ただ面白いから見てるだけだけど?」
「でも、慧が女の子に興味持つなんて珍しいよ? 初めてじゃない?」
「そう?」
「そう。いい傾向だよ」
確信したような声を上げる田尾颯太(たおそうた)は、俺の前の席だ。俺と違って明るく社交的な颯太は友人も多い。単純に気が合う。小三の時からずっと同じクラスだったという偶然もあって、気付いたらいつも一緒にいた。助けられたことの方が多い。多分親友。そんなこと、互いにわざわざ口にはしないが。
その日、移動教室の前の休み時間に職員室に呼ばれ、急いで教室に戻ったときにはもう誰もいなくて、慌てて教科書やノートをまとめて教室を出ようとしたところで、小鳥遊にぶつかりそうになった。
「うわっ、っと、ごめん」
「びっくりしたぁ」
聞こえたその微かで綺麗な音に、俺は再び感動した。本当に綺麗な声だ。
「小鳥遊、次、視聴覚室」
「そうだった! すっかり忘れてた」
よくよく耳を澄ませば聞こえてくるその音は、あまりに心地いい自然な音だ。だからこそ、逆にたくさんの雑音の中では人の耳に留まらないのかと思い当たる。そうだ、高音に熱した炭が立てる音に似ている。あの何とも形容しがたい綺麗で澄んだ音に。
その音を確実に捕らえようと、小柄な彼女の口元に耳を寄せるように屈んでしまう。
「視聴覚室ってどこだっけ。中央棟だっけ?」
「俺場所分かるから、教科書持って来なよ。急がないと」
はっとしたように顔を上げ、俺の顔を真っ直ぐに見て頷き、慌てたように自分の席に向かった彼女は、自分の席に辿り着いた瞬間、不意に顔を上げ、俺の方を見て首を傾げる。黒く綺麗なストレートの髪が、その細い肩を撫でながらさらりと流れた。
「急いで」
声をかけると、再び慌てたように教科書やノートを用意して、教室の入り口まで戻ってきた。
「あの、高岡君、私の声が聞こえるの?」
「は? 普通聞こえるだろう?」
「家族以外には聞こえなくなったのかと思ってた」
何だそのファンタジー設定。ホラー設定か?
本当に驚いているのだろう、その表情にも目にも純粋な驚きしかない。そして次の瞬間、すごく嬉しそうに笑った。何の含みもない、綻ぶようにふわっとごく自然に零れたかのような柔らかな笑顔。
一瞬にしてそれは、強烈に目に焼き付いた。
それ以来だろうか。
小鳥遊は本当に必要なことを相手に伝えたいときは、俺のところに来て遠慮がちに伝言を頼むようになった。「高岡君」と、綺麗な音で奏でられる自分の名前は、それまでとはまるで違って聞こえる。
耳を澄ませば聞こえる小鳥遊の声。それをちゃんと聞き取れるのは、今のところ本当に俺だけのようだ。一緒に近くで聞いている颯太にすら上手く聞き取れないらしい。
「どうも上手く聞き取れない。言いたいことは大体分かるからいいけど」
「そうか? ちゃんと聞こえるだろう?」
「慧は昔から耳がよかったもんなぁ」
「お前はイヤホンででかい音聞きすぎなんだよ」
そうかなぁ、と首を傾げる颯太に限らず、みんなイヤホンででかい音を聞きすぎだ。あの耳に何かを突っ込むというのがどうも苦手で、イヤホンを使うことは滅多にない。
俺が伝言しだしたことで、ようやく小鳥遊の声が小さすぎるほどに小さいと気付いた一部の女子たちが、ちゃんと小鳥遊の声を拾うようになってくれた。
ほらな、聞こうとしてちゃんと耳を澄ませば聞こえるんだよ。そう颯太に言えば「ふーん」と気のない返事が返ってきた。「独り占めし損ねちゃったね」という余計な一言をあとにつけて。
声が届くようになった小鳥遊はとにかく嬉しそうだ。その友人の中の一人に合唱部の子がいたせいか、時々発声練習のようなものをしている。まあ、あまり効果はないようだが。
帰宅部の俺と、同じく帰宅部の小鳥遊の帰りが同じになることも多い。校門を出て、駅に向かって進む人波とは逆に歩き出すのは、このあたりに家があるヤツらだけだ。俺も小鳥遊もこのあたりに家があるヤツらに含まれる。今頃スパイク履いて一生懸命駆け回っているはずの颯太もだ。
一緒に帰る約束をしている訳ではなく、単に前を歩いている小鳥遊を見付けるとその隣に並ぶ。最初は驚いていた小鳥遊も、二度三度と続くと次第に隣に並ぶ存在に慣れてきたようだ。
ふと疑問に思っていたことを聞いてみる。
「なあ、小鳥遊って今までは誰に声聞いて貰ってたんだ?」
ちょっと言い方が不味かったのか、小鳥遊がむっとしている。その表情に思わず口元が綻びそうになり、慌てて引き締めた。
「中学までは子供の頃から仲の良かった子たちがいたから。私、高校になってこっちに引っ越してきたの。一年の時は早々に諦めちゃってた」
中学まではここよりもう少し郊外に住んでいたらしい。だから彼女は真っ直ぐに俺を見てくれるのか。
仲のいい友人と別れたことを残念そうな顔で話す小鳥遊との距離は近い。どうしたってその声を聞き逃さないようにと思えば、その距離は近くなる。小鳥遊はその友人としては少し不自然な距離感には気付いていないのか、それとも気を許しているからこそなのか。
颯太に言われて気付いてしまった。独り占めし損ねたと思っている自分に。
生きることも死ぬことも、同じくらいの重さでしかなかった俺は、そこに何かを求めていた。
俺と一緒にいる小鳥遊はとにかく嬉しそうに話す。俺を勘違いさせるほどに。
小鳥遊にしてみれば、声を張り上げずとも声の届く俺の存在は、単純にいい話し相手なのだろう。
彼女はおそらく喉が弱い。大きな声を出すと喉が痛むのか、よく喉を押さえている。その大きな声も人並み以下の音量でしかないのだが。
囁くようなその声を聞き分けられる、俺の耳を鍛えてくれたじいちゃんに感謝だ。
「ほら小鳥遊、ちゃんと前見て歩け」
脇道から出てきた自転車に、慌てて小鳥遊の体を後ろに引く。思わず抱き込んでしまったのはわざとじゃない。でも、少しだけ抱き込んだままにしたのはわざとだ。
真っ赤な顔した小鳥遊が、下から見上げてくるのがたまらない。いつも以上に小さな「ありがとう」を、聞こえないふりしてその顔に必要以上に耳を近づける。
少しでも俺を意識して欲しい。そうじゃないと俺の方が意識しすぎてどうにかなりそうだ。
「声が小さいと、色々不便だろう?」
何事もなかったように話し掛けると、どこかほっとしたようでいて、それでいて少しだけ何か別の気配を滲ませた小鳥遊は、頬の熱を冷ますかのように手のひらで頬を包み込んでから、小さく頷いた。
何を思ったのか。気になるのに聞けない。
「自分ではこれでもはっきり話しているつもりなんだけど……」
そう言って困ったように笑う。別に他のヤツらに聞かせる必要はないと思うけれど、この先色々困るだろう。学生の間はいいとしても。
聞いて欲しいなら、相手の肩を叩くなりして主張すればいい。でも小鳥遊は、元々の性格なのかそれをしない。ただ必死に気付いてとでも言うように、囁くような声を上げ続ける。
「だから、高岡君が聞いてくれるのはすごく助かってる。伝言してくれてありがとう」
「吉井ともうひとり、小島だっけ? あの二人とは仲良くなった?」
「うん。もっと大きな声で話すようにってよく言われるけど、でもちゃんと聞いてくれる」
きっぱりとした性格の小島などは、時々小鳥遊のその控え目な性格に、悪い意味ではなくとも苛ついてはいるようだ。それを吉井がなんだかんだ言いながら宥めている。
俺にとってはこの控えめなところが可愛くて仕方がないのに。
「よかったな」
こくんとひとつ頷くその顔は、やはり嬉しそうだ。誰も知り合いのいない高校に入学してきて、おまけに自分の声が聞こえなくなっているかも、なんて思い詰めるほどだ。ちゃんと自分の声に耳を傾けてくれる存在は、それだけで嬉しいのだろう。
「高岡君は耳がいいの?」
「そうらしいよ。颯太が言うには」
「颯太って、田尾君? 仲いいよね」
「小三からの腐れ縁だからね」
いいなぁ、と羨ましそうに笑う。
「あと、多分趣味で空手やっているから気配にもそれなりに聡いと思う」
「そうなの?」
「そう。だから部活入ってないんだよ。毎日夕飯食ったあと道場に通ってる。うちの高校空手部ないから。一応颯太も週末だけ通ってるけど──そういえば、小鳥遊はどうして帰宅部?」
「うち、弟がまだ小さいの。だから保育園にお迎えに行ったりするから……」
その何ともいえない表情から、なんとなく複雑な事情を抱えているような気がした。思わず頭の上に手を乗せて「お姉ちゃんは偉いな」と、その思っていた以上に手触りのいい髪をくしゃりと乱せば、小鳥遊の顔が再び真っ赤になった。可愛いな、本当。
小鳥遊は決して目立つような容姿ではない。こう言ってはなんだが、まあ、一見その辺にいそうな少し小柄な女の子だ。目が大きいのが特徴と言えば特徴か。口も鼻も小さい。ほっそりとした体は痩せすぎな気もする。
だからこそ思う。誰も彼女の本当の可愛さには気付かないでくれと。