アンダーカバー / Undercover
Episode xxx


 熱が出た。

 巨大ノワの背に乗り小一時間ほどであっさり砦に戻ってきた。
 有り得ないスピードに気絶した。
 久しぶりのお風呂を堪能しすぎた。
 思いっきり長風呂した。
 砦のお風呂に追い炊き機能はない。
 ついさっきまでは水浴びバンザイな灼熱だった。
 砦は真冬。
 しかもロシア並み。
 ロシアに行ったことはない。

 熱で思考がぶつ切りだ。

「あんたバカなの? 聖女なのに熱出すとか、ないわー。呪文で治しなさいよ」
「ねづざげるじもん、わがんない」
「鼻かみなさいよ」
「あなでない。づまっでう」
「脳みそ腐ってんの? 鼻水垂れてるわよ」

 ノワが冷たい。
 シリウスは帰ってきた瞬間にポルクス隊長に拉致られた。もう丸一日顔を見ていない。
 ブルグレはビュンビュン丸でのんびりこっちに向かっている。五日ほどかかるらしい。

「やざじぐじで」
「いやよ。今イジメなくていつイジメるのよ」
 熱で潤んだ視界のせいか、黒猫ノワが妖獣に見える。もしくは化け猫。
「あんたも大概失礼ね」
 お前もな。
 べし、とおでこに猫パンチを食らった。痛すぎる。
「寝なさい。次に起きたら楽になってるわ」
 ん。



 どこまでが夢で、どこからが現実で、今がいつで、いつが今で──。

 熱を出すといつもわからなくなった。

 苦しくて苦しくて、死んじゃうんじゃないかってくらい苦しくて。
 心配そうな母の声が聞こえたり、いつもより優しい父の声が聞こえたり、何気なさを装った兄の声が聞こえたり、茶化しながらも狼狽える弟の声が聞こえたり。

 頭の中がぐるぐる回って、意味もなく涙が出て、息苦しさと渇きに呻き喘ぐ。

 あ、水。
 ファルボナでは口の中が渇ききる前に水を口に含むようしつこく言われていた。口の中を十分湿らせてから、ゆっくり少しずつ喉を湿らせ、私の内側をじっくり潤し満たしていく。

 湿った唇が気持ちいい。
 サヤ。
 私をそう呼ぶのはただ一人。水みたいな人だ。
 不思議なことに、今まで誰にもそう呼ばれたことがなかった。……誰にも? 呼ばれたこと……誰にも? あ、れ、? 前に……あ、ノワだ。そうだ、ノワも呼ぶ。ノワ? ノワだった? あ、れ、?

 サヤ。苦しくて泣きそう。泣いていいよ。強くなりたいのに。守らせろよ。私が守りたいのに。守られてるよ。私も守られてる。そうか。うん、強くなれる。弱くなってもいいよ。一緒に弱くなる? それもいいな。



「お熱さーがーれー、って唱えてみろ」
 目が覚めた瞬間の小っ恥ずかしい命令。
「言ってる自分が恥ずかしくない?」
「気にするな」
「いやいや、気にしてよ」
 ん? と微かに眉を寄せたシリウスの手のひらが首筋に触れる。
「なんで熱下がったんだ?」
「ノワの猫パンチ」
「ああ、だからか。おでこが赤い」
 ここ、と指がとんとんしているのは額の真ん中だ。ノワめ。
「なんで私の部屋にいるの? なんで一緒に寝てるの? ノワは?」
 肘枕でにっこりされると、とりあえず二度寝したくなる。

 無言で渡された濡れタオルで顔を拭く。あー……ファルボナでの寝起きにさり気なくシリウスのシャツに顔を擦り付けて汚れ除去していたことがバレていたのか。小汚い顔を見られたショックはおでこを執拗に擦ることで中和する。
 これまた無言でタオルを取り上げられ、さっぱりしたところでころんと横を向き、鼻先をシリウスの胸元にくっつけ、嗅ぎ慣れた匂いを思いっきり吸い込む。鼻づまり解消。機能回復。超快適。
 それでも、熱疲れか、おでこを擦りすぎたのか、横を向いたからか、頭が面白いほどくらくらする。

「サヤは一人で寝られるのか?」
「子供じゃないので」
「子供じゃないから聞いてるんだよ」
 いきなり大人の会話はやめてほしい。ただでさえくらくらしてるのに。
「私、丸二日お風呂入ってないけど」
「心配するな俺もだ」
 すっかり臭い仲になっている。嫌な仲だ。それでも匂いを嗅いでしまう。匂いフェチじゃなかったはずなのに。

「知ってるか? すでに婚姻届は提出した」
「どこに?」
「本部に」
「誰が受理したの?」
「俺」
 なにその一人遊び。
「連合本部で挙式らしい」
「うそ!」
「隊長が張り切ってる。聖婚祭だと」
「だからやだったのにー!」
 全世界的見世物だ。絶対に嫌だ。絶対に嫌だ! あ、……後悔してる?
「してない」
「本当は?」
「まだ、してない」
「やっぱりするんだ!」
「場合によっては」
「ほらみろー」
「だが、代わりにサヤを手に入れられるなら、そのくらいはなんともない」
「正気の沙汰じゃない」
「正気じゃなくていいよ」
 けほっ、と咳が出た。

 あ、唇が気持ちよかったのはこれか。また熱出そ……。

「サヤ、今日はサヤが生まれた日だ」
「そうなの?」

 十八歳になるとは思っていた。本当は少し時間がずれているから厳密にはもうなっていたのかもしれない。ここまでたくさんのことがありすぎて、誕生日そのものをすっかり忘れていた。

「一年が終わる五日前だろう?」
「そう。今日なの?」
「俺も同じなんだ。同じ日に生まれている」
 どことなく恥ずかしそうなシリウスが少し珍しくて、口に出さなくても何かのついでに意識の中に浮上した誕生日を覚えていてくれたことが嬉しくて、妙に照れくさい。
「偶然? すごくない?」
「偶然だろ?」
「生まれた日は、サヤが思うような祝いの日じゃないんだ。どちらかといえば、静かに祈る日だ」
「何に? 何に祈るの?」
「何になんだろうな。霊獣や精霊に、と教わってきたが、ノワやブルグレにじゃないだろう?」
「ないね」
 どう考えてもそれはない。

「あとは、天や地や太陽や月や星や、地域によってはそういったものにも祈る」
「何を祈るの?」
「何を? ただ祈るんだ」
 ただ祈るってなんだろう。願い事を祈るわけじゃないってことか。祈願じゃなく、ただ祈る。よくわからないけれど、無心に祈るということなのかもしれない。

「そうだな、そんな感じだ。願いを思うのとはまた違う。願いは実現できるものに対してそれを伝えることだろう? 霊獣や精霊は願いを叶えてくれるわけじゃない。尊ぶべき存在だ」

 神様や仏様って願いを聞き入れてくれる存在かと思っていた。救われたいとか、助けてほしいとか。
 シリウスの、わけがわからん、みたいな顔がちょっと面白い。
 尊ぶべき存在が実在するこの世界の人は、霊獣がなんでもかんでも救ってくれるわけでもなければ、代償もなしに助けてくれるわけでもないことを知っている。だから、ただ祈るのかもしれない。

「で、お祈りした方がいい?」
「いや。とりあえず報告しておくか、霊獣と精霊に」

 脳内で「私たち今日ハッピーバースデー!」と叫んだら、「うるさい!」と隣の部屋からノワの怒号が轟いた。うるさいのはどっちだ。