アンダーカバー / Undercover
第二章 縁33 ゼフ族のオアシス
ゼフ族のオアシスは、ゾル族のオアシスと規模も雰囲気も似ていた。
オアシスに到着したことを実感するのは、目に眩しい緑、涼を運ぶ澄んだ風、小鳥のさえずり、そして活気だ。それらがひと塊になってこれでもかと全身にぶつかってくる。
オアシスは生きるエネルギーみたいなものをまざまざと魅せつけてくる。同時に、荒野には死が蔓延り、オアシスを持たない人たちはその中で必死に生を紡いでいることも、否応なく浮き彫りにする。
シリウスと私、ファルネラさんとボナさん一家以外はオアシスに入らず、その脇でテントを張ることにしたと聞いて、シリウスは小さくも重いため息を吐いた。
ザァナ族と別れて以降、シリウスは静かに怒り続けている。
どこのオアシスでも、所々に透かしの入った荒野色の分厚いブロックがシリウスの身長ほど積まれ、侵入者や野生動物、雨期の浸水を防いでいる。
オアシスに入るには、少なからずお金がかかる。サンドイッチひとつ分ほどの金額を払いさえすれば、宿を取らずとも安全な広場でテントを張り、たらふく水が飲める。当然連れているガバもだ。
ボナさんが全員分を用立てるというのを制して、シリウスが全額払った。
ファルネラさんとボナさんは元々私たちの護衛なのでこちらが払うのは当たり前なのに、ボナさんは自分を含めた家族の分をシリウスにそっと渡していた。
いつも通り、ボナさんとファルネラさんの部屋を取る。ゾル族の証の光石を見せると、グレードアップしてくれた。ありがたい。
証の光石をオアシスの入り口で見せると無料で通してくれるものの、さすがにこの人数では申し訳なく、ちゃんと支払ったのだ。
一緒に来たのは、ボナさん一家の他に、男の人がガバの数と同じ五人、女の人が六人、子供が七人だ。そのうち夫婦は二組だけで、三人の男の人は奥さんを亡くしており、四人の奥さんは旦那さんがボナさん同様出稼ぎに出ている。どこにいるのかはわからないらしく、オアシスの入り口でここに滞在していないかの確認をしていた。
「ネラをこの部屋に泊めるか。空いた部屋を女の人たちに開放しよう」
「定員オーバーになるけどいいの?」
「部屋をどう使うかは、備品さえ壊さなければ自由だ」
そういえばダファ族のオアシスでもいきなり人数が増えたっけ。なんだかずいぶん昔のことのようだ。
部屋のことを聞いた女の人たちは、無邪気に喜んだ。荷物から石鹸をひとつ渡すと、飛び上がらんばかりに感激していた。とにかく子供たちを清潔にしてくれ、というシリウスの声が聞こえたかどうか。
案内されたのは広めのツインルームで、寝室とリビングが衝立のような間仕切りで分かれている。
お昼過ぎの到着だったため、ファルネラさんは男の人二人を連れ、日が暮れる前に大量の水と食料の買い出しに出ている。彼から預かった荷物だけが部屋のドアの横にぽつんと置いてある。洗濯した方がいいのだろうけれど、さすがに人の荷物を開ける気にはならない。
「サヤは少し休め」
「もう大丈夫だよ」
「俺が大丈夫じゃない。シャワーを浴びたら大人しく寝てろ。洗濯は俺がする」
ボナさん一家はガバを二頭用意していたけれど、追随した大人十一人はたった五頭のガバしか連れていなかった。しかも渇きに渇いていたらしく、水を与えたら際限なく飲まれ、あっという間に水がぎりぎりまで減り、仕方なく一頭ずつ左手で回復していったら、なんと力の使いすぎでダウンした。自分でもびっくりだ。慌てて飛んできたノワにこっぴどく叱られたのは言うまでもない。
大量の洗濯物を持って部屋を出て行くシリウスを見送る。下着……と思ったけれど、諦めよう。たぶん私に下着を洗われたシリウスもこんな気持ちだったのだろう。
シャワーを浴びて久しぶりにスッキリしたところで、ふたつ並んだベッドのうちのひとつに寝転がる。ベッドが久しぶりすぎてちょっとした感動を覚える。
隣ではノワが羽ヒョウサイズで寛いでいた。ブルグレは珍しくノワの脇で寝ている。
「シリウス、すんごーく怒ってるわね」
「やっぱり?」
「まあでも、これを逃すと一生縛られたままになると思ったんでしょうね」
彼らは着の身着のままで家中の食料と水をかき集め、ほんの少しの着替えと、ほんの少しのお金を持って、ボナさん一家についてきたらしい。
あの日、遅くまでボナさんのお父さんは族長と話し合い、結果、決定的に決裂したらしい。
その場でボナさんのお父さんはザァナ族から追放されることになり、これ幸いとボナさんが追随した。
それを知った一部の人たちもボナさんのお父さんに追従することを決め、一目散に荷造りして後を追った。
「せめて稼ぎの半分はその人のものにするべきだって言ったらしいわ」
「で、族長がそれに反対したと」
「そういうことね」
「半分も取られることだって信じられないよ。重税だよね」
「まあでも、そうでもしなきゃ一族を維持できないんでしょ」
「それでもさー」
自分で生活を支えられるほど稼いだことのない私が言うことじゃないけれど、さすがにお給料全額没収はナシだと思う。働く気が失せる。家族ならまだしも、全額没収のうえ、近所の人に分配されたらバイトする気にならない。
「どっちにしろ近いうちに一族離散ね」
「そうなの?」
「後を追うものがどんどん出ると思うわ。ちなみにあの男五人、護衛に吹っ飛ばされた五人よ」
「なんで? 吹っ飛ばされて何かに目覚めたの?」
「目覚めたんじゃない?」
ノワがむひっと牙を剥いた。人をからかうのも大概にしてほしい。
「そういえばさ、みんなはどこを目指すつもりなんだろ?」
「男の人たちはバザールを目指しているわ。女の人たちは自分の夫がいる場所ね」
ボナさん一家以外は行き当たりばったりだ。
あまりの計画性のなさにシリウスは呆れを通り越してお怒りだ。おまけに彼らにはまるで危機感がない。家を持たない暮らしをしているとあそこまで暢気になれるものなのか。
実はファルネラさんも呆れていた。
ボナさんやボナさんのお父さんとはきっちり話し合い、ファルネラさんのところで雇われることになっている。けれど、ほかの人たちはそうじゃない。なんとかなる、とどこ吹く風だ。
ボナさん親子は道中ずっと謝り通しで、ここ数日は、「こんなはずでは」が二人の口癖だとシリウスも同情していた。今まで守られてきたのだから、危機感を抱けないのもわかるけれど、この先もボナさん一家に頼り切りになるのではないかと心配になる。
彼らはテントすら用意しておらず、ボナさん一家が用意したひとつをみんなで使おうとしていた。見かねたシリウスがボナさん一家をうちのテントに誘い、ボナさん一家は恐縮しきりだ。
「あ、そういえば後でファルネラさん来るよ。今日はファルネラさんと同室だって」
えー、と抗議の声を上げつつも、ノワがベッドを移動してきた。
「ふかふかのマットもまだ買えなくてごめんね」
「それはいいの。気に入ったのがなかったんだから」
ダファ族のオアシスでノワはふかふかのマットか絨毯を探し回ったものの、気に入るものがなかったらしい。
夕食は部屋に運んでもらった。とにかく静かにゆっくりしたいと、シリウスもファルネラさんも疲れ切っていた。
夕食を食べ終わると、ファルネラさんが自分は長椅子で寝ると言い張り、面倒くさくなったシリウスが長椅子をひっくり返し、ベッドの位置をずらし、その間に部屋を仕切っていた衝立を立てた。ファルネラさんが「子供か!」と笑っていたらしい。
『お疲れさま』
──疲れたよなぁ。任務より疲れた。
『あの人たち、暢気すぎて苛々するんでしょ?』
──そうなんだよ。ここじゃあれが普通なのか? ネラたちも呆れてたってことは普通じゃないよな。
何をもって普通とするかにもよるだろうけれど、少なくとも少し先の未来に不安を持たない彼らは、ある意味幸せなんじゃないかと思う。その日暮らしが染み付いているとでもいうか。逆に彼らの中にいて危機感を持てるボナさん親子がしっかりしているのだと思う。だからこそ、亡命を考えたのだろう。
──彼は努力家だからな。ネラが言っていたよ、常により良いやり方を訊いては、さらに工夫しようとするって。
『へー、偉いね』
ボナさんはシリウスより年下だ。ファルネラさんはシリウスより年上。道中の細かいことは、大抵ファルネラさんが中心となって計画を立てていた。みんなが馴染むにつれて息も合っていった。きっとこの先困ったことがあれば駆けつけるだろう、大切な仲間だ。
「三人のいびきがうるさくて寝れなかったわ!」
翌朝、目が覚めた途端のノワの罵声に、シリウスと私は首をすくめ、衝立の向こうからは大きなあくびが聞こえてきた。
ここからはダファ族のオアシスまで一気に移動する。
このオアシスで女の人の夫が一人見付かり、女の人二人と子供が二人減ることになった。どうやらザァナ族の男たちは二人一組で行動しているようで、見付かった男の人の相方も数日後にはここに戻ってくるらしい。その相方の奥さんも、このオアシスで夫の到着を待つことになる。
「ボナさんの相方もいるの?」
「いや、今はいない。色々考えた始めたあたりで単独行動していたようだ。必ず二人一組というわけでもないらしい」
色々とはつまり亡命のことだろう。
「二人一組っていうのは、お互いズルしないよう見張り合っているようなものなのよ」
うわぁ。仲良しだからじゃないのか。うわぁ。うわぁ……。
「顔がブスよ」
ノワが辛辣。
シリウスはブルグレと一緒にビュンビュン丸の荷造りに行った。私はノワと一緒に部屋で荷造り中。鞄にどうやったら効率よく詰められるかもわかってきた。
「ブスにもなるよ。なんかもうそれって本当にやる気が削がれるんだけど」
「一族のためにって思えないとそうかもね」
なんだかそれって私がダメ人間みたいじゃないか。
「でもさ、がんばったご褒美がないとがんばれなくない?」
「そういう考えを持つ人は、外に出たまま帰って来ないわ」
やっぱり。
「で、帰ってこない子供を待ち続ける年老いた親が取り残されるってわけ」
あー、と声を上げたまま言葉が続かなかった。うちの親も、あのマンションで私の帰りを待ち続けるのだろうか。
ごめん、と謝るノワに笑ってみせた。
夜明けともに出発する直前、シリウスがまたもや静かに怒っていた。
何事かとブルグレに訊けば、同行している男の人たちはそれぞれがしっかり自分たちの分の食料や水を確保しているのに対し、女の人二人が何も用意していないという。何度となく男の人たちが自分たちで用意するよう口うるさく言っても、用意されるのが当たり前という態度で、結局彼らが自分たちの分を分け与えることにしたらしい。
この時点で、年若い夫婦二組が完全に女の人二人と距離を置き始めていた。
昨日までの小汚い一団とは違い、全員がこざっぱりしているからか、余計にその距離の置き方がはっきり見えた。
どうやら夕食や朝食に関してもそんな調子だったらしく、自分のお金は出さないくせに、周りがお金を出して買ったものを、少しずつ恵んでもらっていたらしい。お金が平等に分配されているなら、彼女たちも同じだけ持っていることになる。買い方がわからない、子供がお腹をすかせている、と言い訳しながら両手を出すらしい。
実は、宿に到着してすぐ、ボナさんのお父さんがみんなにこれまでとは違うことを懇々と言い聞かせている。男の人たちは出稼ぎに出ていたこともあってあっさり理解したものの、一族の中でしか暮らしたことのない女の人たちはすんなりのみ込めなかったようで、とにかく、自分のことは自分で、としつこく何度も繰り返して頭にたたき込むしかなかったらしい。
「たたき込まれなかったみたいだね」
「そのようじゃ」
悪びれる様子もなく、子供と一緒にけらけら笑っている。悪気がないのはわかるけれど、さすがに空気を読んでほしい。
怒っていたのはシリウスだけではなかったようで、ボナさんのお父さんがこのオアシスに彼女たちも残すことを決めた。どちらにしても、ここは彼ら一族が出稼ぎのあと最後に立ち寄るオアシスらしく、ここで待っていればそのうち夫にも出会えるだろうと、問題をオブラートにくるんだまま投げ捨てることを決めていた。
正直、仕方ない、と思ってしまった。
わからないものはわからない。いままで当たり前に与えられていたものが突然なくなり、それには対価が必要だと言われたところで、なんで? としか思えないのだろう。
私も同じだ。シリウスに頼り切りになっている。彼女たちと何が違うのだろう。だから、いきなり切り捨てられる恐怖にいつもどこかで怯えている。
ボナさんの奥さんが、しきりに二人に話しかけている。けれど、わかっているのかいないのか、彼女たちの表情がボナさんの奥さんほど真剣になることは最後までなかった。ボナさんの奥さんが諦めたように目を伏せ、小さく息を吐いたのがなんだかすごくせつなかった。
どうか一日も早く彼女たちの夫が来てくれますように。そう願うよりほかない。
みんなの分の水もビュンビュン丸に積むことになり、ボナさんの奥さんもガバに乗ることになった。大丈夫なのかとジェスチャーで訊いてみれば、大丈夫、とばかりに胸の前で拳を握られた。赤ちゃんはカゴに寝かされ、ガバの脇に荷物のように積まれている。これまた大丈夫なのかと心配になる。
ボナさんの奥さんは小柄でかわいらしい人だ。まだ二十歳だそうで、二十歳で二児の母かと思うと遠い目になる。
一族との別離の夜、ボナさん共々何度もお礼を言われ、かき集めた財産を辞退し、彼女が作ったきれいな組紐をお礼に貰うことにした。今日もシリウスとお揃いで使わせてもらっている、夕日を織り込んだような鮮やかな腰紐だ。
ファルネラさんとボナさんは名前の交換をしたようだ。
ボナさんはザァナルウ、ボナさんの奥さんはギエナ、ボナさんのお父さんはザァナルミという名前だ。私たちはザァナ族から離れた直後に教えられた。ボナさんのことはボナルウさんと呼ぶことにする。
ちなみに、私とシリウスは名前を教え合うことが信頼の証などとは思っていないので、護衛の二人とは出会ったときに自己紹介済みだ。直接声をかけるとき以外は、シリウスは「旦那」私は「嬢さん」と呼ばれているらしい。
ギエナさんも子供も顔色はいいようでほっとする。出産したのにまだお腹が膨らんだままで、産んだのになんで? と思っていたら、時間をかけて元に戻るのだと聞いて驚いた。産んだらすぐにぺったんこになるものだと思っていた。
ブルグレ通訳によると、ギエナさんは初めてベッドで寝たらしく、すっごくぐっすり眠れた、ご飯もお腹いっぱい食べられた、元気いっぱい、ということをアイドル並みのかわいらしいジェスチャーで伝えてくれた。
ちょっと真似してみよう、と思った瞬間、ブルグレに、ぶへっ、と笑われた。失礼な。
ノワはビュンビュン丸でまったりしている。シリウスの差し出す手につかまり、ガバに跨がる。
ガバが一斉に嘶いた。ようやく出発だ。
すでに夜は明けきっていた。