隣にいる人
後日談


「加藤さん、水内をここで雇ってもらえますか?」
 その日、朝一番に山本さんが深刻そうな顔で、事務所に顔を出した基さんに声をかけた。
「何かあった?」
「実は、山木のターゲットが水内に移りました」
 その苦いものを含んだ山本さんの声に、事務所にいた他の人も基さんの席に集まってきた。

 事務所内には基さん、蓮さん、雅さんの席もちゃんとある。蓮さんは毎日朝からちゃんと顔を出し、基さんはその日の気分で家で仕事をするか事務所で仕事をするかを決めている。雅さんは基本的にお店の方にいて、週に一度顔を出す程度だ。

 山本さんが言うには、水内さんは吉野さんに言われたことを彼女なりに考え、春から週末は簿記のスクールに通い出し、平日は通信講座を受講しているらしい。この事務所には今、一般事務や経理事務をおこなえる人がいない。

 経理に関しては、基さんの知り合いから近所に住む人を紹介され、秋には入社してくれることになった。その方の奥さんがなんとまだ十八歳だそうで、出来るだけ彼女の側に居たいからと、大手企業を辞めてうちに来てくれる。
 聞けば奥さんは料理が出来ると言うので、ならばとうちでアルバイトとして雇い、みんなの賄いを作ってもらったり、雑用を引き受けてもらうことになっている。仕事ぶりを見て、ゆくゆくは事務職として正式に雇いたいと基さんたちは考えている。さすがに私も毎日みんなの賄いを作っていられるほど暇ではなくなってきた。

 元々水内さんは今のチームの人にその存在を認められていないらしい。高橋チームのサポートに手を挙げたときも、「代わりは他にもいるから好きにすれば」と突き放されたと聞いている。それでも彼女の仕事は確実らしく、認めないくせに頼っているという歪なことになっているそうだ。
 ネームバリューのある事務所だからか、そこに居るのは当たり前に出来る人たちばかりで、その意識も高めだ。一部の人は、少し間違った方向に意識が高くなっているような気がするのは、気のせいじゃないと思う。

 その彼女が今までより早めに退社することにチームの一部から不満が出ているらしい。その日の仕事はきちんと終わらせてから退社しているにもかかわらず。
 チームリーダーは彼女をさりげなく庇ってくれているらしいが、不満というものは一度噴出するといつまでもくすぶり続けるのだろう、事あるごとに嫌味を言われるらしい。

 それが、出向から戻った山木さんの耳に入った。

「山木がまた、俺が守ってやらないと、って思い込んだのか……」
 野本さんの眉間に皺が寄っている。水内さんには一刻も早く事務所を移ってきて欲しいと思ってしまう。
「あいつもそういう意味では根は悪い奴ではないんですよ。でも、あの全てを恋愛に絡めてくる思い込みは……」
 山本さんが野本さんと同じように眉間に皺を寄せた。同期として助ける、同じフロアで働く者として助ける、ではないのが、山木さんの欠点だと山本さんは言う。

「すぐ辞めさせろよ。佐々木のことがあったから、今度はもっと隠れてやるようになるかもしれないだろう?」
 少し怒ったような渡辺さんの言葉に、基さんも真顔で頷く。チームの人が味方になってくれないのであれば、水内さんは私以上に心細い思いをしているはずだ。
 思わず基さんに助けを求めるように視線を送れば、目が合った基さんは、分かっているとでもいうように、小さくひとつ頷いた。

「うちからスクールに通ってもらえばいいから。むしろ九月までは集中してスクールに通ってもらおうかな」
 その基さんの言葉に、山本さんが確認するかのように問う。
「事務職は、ここに必要ですか? 水内は必要ですか?」
「必要だよ。元々モトに負担がかかりすぎているから、来てくれるなら助かる。今までと違って人数も増えたから、余計にね」
 答えたのは基さんではなく蓮さんだ。
「彼女、やる気はあるし、仕事も出来るなら、ゆうさんと同じサポートでもいい。ゆうさんにはモトについてもらうから。おまけに経理事務も出来れば言うことないよ。人柄ももう分かってるしね」
 簡単に言っているように聞こえて、その実、基さんも蓮さんも雅さんも、裏ではかなりシビアだ。

 時々うちに三人で集まって、会社の話をしている。漏れ聞こえる言葉を聞いていると、人物評価もかなり厳しい。彼らにかかると、年上である野本さんですらまだまだだと評価される。それもあって基さんのお父さんの事務所に行かせたらしい。戻ってきた野本さんの仕事に対する姿勢の変化に、基さんたちは満足気だった。ある意味、怖い人たちだと思う。そうじゃなければ経営なんて出来ないのだろう。

 でも、確かに蓮さんの言う通り、もう少し基さんの仕事を減らしたい。会社の裏方的なことは、今、全て基さんが一人で行っている。自分の仕事をしながら、並行してそれも処理しているので、今の基さんにお休みはない。
 私が手伝えればいいのだけれど、私は私で今はなかなか手が空かない。既に設計部門では、規模は小さいものの仕事がひとつ動き始めているので、現状かなりタイトなスケジュールになっている。野本さんがイギリスから戻ると、一気にこの事務所も動き出した。



 新しい事務所は、TEAM:Tという、一体何の会社なのかがさっぱり分からない名称になった。略してTTだそうだ。蓮さんと雅さん、由乃さんの三人で考えたロゴが、すでに珈琲纁の看板の下に掲げられている。

 蓮さんと野本さんが考えたその名称を聞いた高橋さんが、すごく微妙な顔をしていたと、佐野さんが教えてくれた。
 吉野さんは「なんだそれ」と言いつつ面白がっているらしい。吉野さんの娘さんにその名称が何故かウケたらしく、吉野さんはご機嫌だそうだ。河野さんが面白がって教えてくれた。

 そもそも事務所の名称は代表者である高橋さんが決めるべきではないのか。
「高橋さんが決めたら、普通に高橋設計事務所になるよ。それじゃつまんないだろう?」
 聞いたらそう野本さんに返された。

 密かに高橋さんが、高橋、吉野、佐野の頭文字をとって「TYS設計事務所」にしようとしていたのを佐野さんと私は知っている。高橋さん、こっそりロゴまで考えていたのに……。

 おまけに、面白がった山本さんと渡辺さんが、すかさず商標登録までしてきたらしい。雅さんはロゴ入りTシャツまで作ろうとしている。意味が分からない。
 TEAM:TはReMontoやMIYABIと同じく、MRMの一部門として存在する。



 水内さんの退社の話が進むのと並行して、私たちの結婚式の準備が勝手に進んでいる。仕切っているのは蓮さんと遙香さんだ。遙香さんはウェディングケーキを自分好みに作りたいらしく、お任せしている。
 身内だけの小さなパーティーにしたいのに、ここに来て基さんのご両親から、彼らの仕事関係者を招待して式を開くよう言われ始めた。
 考えてもみて欲しい。世界的に活躍する建築家の関係者がどれほどいるかを。
 基さんがそれは絶対に嫌だと猛烈に抵抗した。そのやりとりをスカイプで行うものだから、二人の子供じみた言い合いが筒抜けで、世界的な建築家も普通のお父さんなんだなぁと、妙なところで安心した。

『ゆうさん、ゆうさん。知り合いのデザイナーが作るウェディングドレス、着てみたくないかい? オートクチュールだよ?』
「柚をそそのかすなよ。ウエディングドレスは俺が決めたのを着るから。いちいち口出しするなよ」
 スカイプの向こうから舌打ちが聞こえた。一事が万事この調子だ。二人して私を盾に言い合っている。おかげですんなりご挨拶が出来た上に、気を張ることなく会話できる。スカイプ越し、お義父さんの背後にいるお義母さんが呆れた顔で肩をすくめていた。真似して同じように肩をすくめたら、お義父さんの背後で吹き出すように笑っている。

 ウェディングドレスは既に雅さんの知り合いの若いデザイナーさんたちが共同で作ってくれることになっている。てっきりレンタルするのだと思っていたから驚いた。
 デザインをお任せする代わりに材料費だけでいいらしい。ミニスカートや奇抜なのは嫌だと密かに思っていたら、クラシカルな懐古的デザインになると聞いて、お任せすることにした。
「絶対に似合うものを作ります!」と力強く宣言してくれた三人の若手デザイナーさんたちは、何故か私ではなく基さんと密に連絡を取っていて、どうやら基さんの意向がそこに盛り込まれるらしい。デッドストックやアンティークのレースを使えることになったと喜んでいるのを小耳に挟んだ。材料費がどれほどのものになっているのか不安で仕方ない。

「ゆうさん、あのね。ゆうさんのあと、私にも貸してもらえる?」
 雅さんのところでバイトしている由乃さんが、先にデザインを見ているからか、恥ずかしそうにそうこっそり聞いてきた。ならば張り切ってもらいましょうと、一切口を出さないことに決めた。
 あの時の由乃さんの、あの可愛さを独り占めできた幸せったらない。その日、基さんに熱く語っただけじゃなく、河野さんにまで自慢してしまった。文字を送ったにもかかわらず、即座に河野さんから「ずるい!」と電話がかかってきた。ちょっと勝った気になって、今思い出してもにんまりしてしまう。基さん曰く、見たこともないほど得意気な顔をしていたらしい。

 式は近所の結婚式場が、既に雅さんによって押さえられている。評判のいい式場らしく、「早めに申し込んどいた俺に感謝して」と雅さんが偉そうに基さんに言い、基さんに舌打ちを返されていた。
 これを機に雅さんと若手デザイナーさんたちはウェディング企画を起ち上げる予定らしく、結婚式の前にその発表も計画されている。そのモデルにもなるよう言われたものの、絶対に嫌だと抵抗したら、あっさりモデルは河野さんが引き受けてくれた。ジュエリーは全て雅さんがデザインするとあって、河野さんは二つ返事だったらしい。
 ちなみにそのジュエリーはさすがにレンタルになる。

「でも、佐々木さんのためのドレスなのに、先に私が着てもいいの?」
 そう心配そうに河野さんに確認されたので、ならばいっそそのまま雅さんと式を挙げてしまえば? と言えば、案の定真っ赤になって否定していた。セレブな河野さんと雅さんの結婚は両家からも祝福され、某有名ホテルでの盛大な挙式が本人たちの意思とは別のところですでに決まっている。



 面白いことに、水内さんの退社が決まると、急にチームの人が彼女を引き留めだしたそうだ。引き継ぎがこの春に入ってきたばかりの新入社員だったこともあり、チームにもその負担がのし掛かかり、それによって思った以上に水内さんの存在に助けられていたことを今更ながら実感したらしい。
『ざまぁみろよね。水内の仕事って手堅かったから、新人と比べようもないってようやく分かったんだよ。今頃分かっても遅いわ! って、佐野さんと守谷さんとで笑ってやったわ』
 そう河野さんから電話で知らされた。

 そもそも入社したての新人と比べたら、それは当たり前だと思うけれど、その当たり前が通用しないチームなのだろう。引き継がれる新入社員が心配になる。河野さんも、その新入社員は早々に他のチームに移りたがるんじゃないかと言っていた。
 実は、河野さんがこっそり元いたチームに声をかけているそうだ。河野さんがいたチームは水内さんのチームよりは過ごしやすいらしい。仕事の仕方などは河野さんがいるうちに、一緒にお昼を取りながらこっそり教えておくつもりだと言っていた。

 そして、水内さんを気遣ってくれているのがもう一人、第二にいる同期の佐藤さんだ。山本さんが頼んだこともあって、二人がお付き合いしていることを何度も山木さんに話しているものの、案の定、聞く耳は持たないらしい。
 さすがに二回目なので佐藤さんも呆れ、積極的に水内さんを気遣ってくれているらしい。

 水内さんは護身術を心得ている。子供の頃から海外を定期的に移住していたために必要だったらしい。驚くことに銃の使い方すら知っていると言う。一見華奢で柔らかなイメージの水内さんからは想像できないくらい強いそうで、山本さんが「本気出されたら負ける」と、ちょっと情けない顔で教えてくれた。

 それもあって、山本さんはどこか暢気だ。それを渡辺さんはひどく心配している。
「どれほど強くたって、心は傷付くんだぞ」
 そう言って、山本さんの分の仕事を自分が引き受けるからと、彼に水内さんを毎日迎えに行くよう説得していた。

 渡辺さんのその言葉は重い。おそらく事情を知るだろう山本さんもそれには素直に従い、野本さんや基さんに了承を得て、水内さんを迎えに行っている。
 佐藤さんは佐藤さんで、山木さんのことを気にしているらしい女性社員を、さりげなく山木さんに近づけているらしい。山木さんも満更でもないようで、そのままくっついてくれると楽だと、山本さんに愚痴っているそうだ。



 隣県に住む水内さんのご両親に山本さんが挨拶に行き、事情を説明し、事態が好転するまでは山本さんと一緒に暮らす了承を得ている。その際、水内さんのお父さんから、英語、フランス語、ロシア語、中国語、スペイン語、アラビア語で話しかけられるという試練があったそうだ。山本さんは何とかクリアしたらしい。
 それを聞いた基さんが、自分はヨーロッパ圏の言葉しか分からないと嘆いていた。どこに嘆く要素があるのか。意味が分からない。渡辺さんは世界中どこに行っても最低限の意思疎通が出来るらしい。私だってジェスチャーであれば可能だ。そう言ったら、基さんに大笑いされた。

「中華街なんて行ったことない」
 水内さんの実家に挨拶に行った山本さんが、お土産にと買ってきてくれた豚まんやシュウマイを美味しく頂いているときに思わず呟けば、みんなに哀れむような目を向けられた。

 休日にみんな揃ってうちに集まるのが段々と恒例化している。そして当たり前のように蓮さんがコーヒーを淹れてくれるのも、もはや恒例。うちの食器棚には、みんなが持ち込んだマグカップが並んでいる。

「今度連れてってあげるから。私の友達も紹介するね」
 水内さんにものすごく優しい顔でそう言われてしまった。行く機会がなかっただけだから。こっちに友達がいないのは……事実だけれど、地元には高校の時に仲が良かった子はいる。何故かみんな早々と結婚しちゃって、今は育児に忙しいだけだから。

 頭の中で言い訳しながらやさぐれていたら、由乃さんに杏仁豆腐を渡され、無言で慰められた。
「由乃さんは行った事ある?」
「ある。色んなところに連れてってくれる」
 由乃さんがちらっと渡辺さんにその目線を送る。その時の渡辺さんの得意気な顔と言ったら。
 あれほど表情が動かないと思っていた渡辺さんは、何かが吹っ切れたのか、もうそれを隠そうとはしない。それを見て何を感じたのか、由乃さんも渡辺さんが表情を動かす人には最初からすんなり接するようになっている。
 端から見ていると二人の在り方がよく分かる。

 その週末、金曜日に少し早めに仕事を終わらせ、みんなで中華街に行くことになったのは、私のせいじゃないと思う。

posted on 1 June 2016

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