夜も昼も
降っても晴れても
01 戀、刺される降っても晴れても
とん。
思ったよりも軽い衝撃に、戀は一瞬、なんともいえない不思議な気持ちに包まれた。
恐る恐る視線を下げていく。慌てて目を背けたところで後の祭りだ。目にした事実がたとえようもない異物感を伝えてきた。鮮烈な痛みと灼熱が思っていたよりも大きく爆ぜた。
奥歯をぐっと噛みしめ呻きを堪える。痛みに直結する呼吸をできるだけ抑え、浅く息を吐くように問いかける。
「大丈夫?」
心臓は胸を突き破りそうなほど暴れ出し、血液は耳の奥で激しい音を立てながら煮えたぎる。
「落ち着いて」
カッターを握る彼の目は大きく見開かれたまま、息すらも止めているのか微動だにしない。
「大丈夫? わたしの声、聞こえる?」
一語一語区切りながら話しかける。強烈に痛い。引いてしまいそうになる顎や寄せてしまいそうになる眉を歯を食いしばりながらなんとか堪え、かっと見開かれた彼の目の奥を覗き込む。瞬き一回分か二回分、体感的には十分や二十分にも感じた数秒ののち、虚ろに濁っていた彼の目がようやく焦点を結んだ。
「ごめ……っ」
「うん。そういうのはあとで聞く。ひとまず落ち着いて」
こくこくと壊れた人形のように何度も頷く彼は、本当に壊れてしまいそうなほど青褪めていた。
「そっと、ゆっくり、カッター引き抜ける?」
「えっ……」
「大丈夫だから、わたしの言う通りにできる?」
普段大人びた彼が幼子みたいな仕草で小刻みに頷く。そのたびに小さくも破壊的な振動が振動が刃を揺らす。傷口に鋭く響く猛烈な痛み。一刻も早く抜いてほしい。
「じゃあ、そっと、ゆっくり、引き抜いて。あっ、下見ないで。わたしを見たまま、カッターなんか意識してないふりして」
廊下に逃げた級友たちの恐怖と不安と絶望、怖いからこそ目が逸らせず振り返って確かめてしまう本能にも似た剥き出しの視線から全てを隠すように、さり気なく身体の位置をずらす。そのはずみで腹部に鋭利な痛みが走った。ぐっと歯を食いしばって悲鳴を殺すも、殺しきれなかった小さな唸りが喉の奥で震える。
痛い。どうしようもなく痛い。早く抜いて! 叫び出したい衝動を必死に抑え込む。嫌な汗が噴き出した。
「ごめ……」
「いいから。ゆっくり抜いて」
「でも、抜くと出血するって……」
いつもとは違う覚束ない言葉遣い。彼の声が、視線が、うろうろと彷徨っている。
廊下からは生徒たちを落ち着かせようとする教師のヒステリックな声が聞こえてきた。きんきんと尖った声が周囲の不安を増幅していく。
お腹から心臓にかけて痛みが縦横無尽に暴れ回る。指先の痺れが急げと叫んでいる。膝が笑い出す。腰が勝手に力を抜こうとする。
「大丈夫だから。早くしないと先生が来る」
口調を強めると、カッターを握る彼の手がびくっと震えた。またしてもお腹に痛みが走る。思わずそれ以上動かないようカッターを握る彼の手首をぎゅっと掴んだ。
「お願い、言う通りにして。わたしは大丈夫だから」
思った以上に切実な声が出た。痛みが全身の神経を残酷なほど研ぎ澄ましている。
ふと、彼の目にいつもの凜とした光が戻る。
「ゆっくり、引き抜けばいい?」
彼の声に迷いがなくなった。
「そう、ゆっくり」
腹部に突き立てられた灼熱の塊が、ゆっくりと引き退いていく。
「そのまま、できるだけ音を立てないようゆっくり刃もしまって」
彼は言われた通りに慎重に引き抜きながら、音を立てないようカッターの刃を戻していく。お腹のあたりで小さく鳴るカチ、カチ、という独特の音。騒然とする廊下までは聞こえないはず。
「いい? 倒れ込んできたわたしのお腹に刺さりそうになったから、慌ててカッターの刃をしまったって言って」
「えっ、でも……」
「わたしは大丈夫だから。あとで説明するから。今は言う通りにして」
躰全体が熱を持ち始める。再生はいつだって熱を発する。
「熱でふらついたわたしを咄嗟に支えたんだって。みんなが勝手にびっくりして逃げただけだって。大丈夫、いつもの三井くんの落ち着いた言い方だったら、みんな信じるから」
「でも結城……」
「わたしは大丈夫。ちょっと熱っぽいだけ。あのね、三井くん」
間近にある青ざめてもなお男らしく精悍な顔を見上げながら囁く。
「一緒に一世一代の大嘘をつこう」
にっと笑ってみせると、彼が珍しいものを見たかのように僅かに目を見開いた。腹部にあった痛みと熱の塊が周囲に散り始める。もう大丈夫。そう思った途端、躰から力が抜けた。
「ごめっ、ちょっと立ってられない、かも……」
熱に煙った意識の中、彼の手にあったカッターが床で跳ねる音を聞いた。
「そんな言い訳が通用するとでも思ってるのか!」
「まま、畠山先生、落ち着いてください。三井の言うことと周りの生徒の言うことはほぼ一致していますから。あとは結城の話を聞いてからでも遅くはないでしょう」
「大内先生がそうやって生徒を甘やかすから、こういった事態を招くんです」
「先生方。静かにできないなら外に出ていただけますか」
地を這うような低い声に、学年主任と担任の声がぴたりと止んだ。
霧が晴れるように、薄らぼんやり煙っていた頭がクリアになっていく。薄く目を開けると、右側の影がそっと息を吐くように声を発した。
「気が付いた?」
「三井くん」
周囲の様子を窺おうとして視線を走らせると、すかさず「ここ、保健室」と彼から答えが与えられる。
「ついててくれたの?」
「あー、これ」
彼の右手が持ち上がると同時に、戀の右手も持ち上がった。
「あ、ごめん」
「いや、実はこれのおかげで助かってる」
「あっ、結城さん、気が付いた?」
どれ、おでこ触るよ、と断りながら養護教諭の大きな手のひらがおでこを覆う。ごつくて分厚い手のひらは予想に反して柔らかく、心地好いひんやり感が余分な熱を奪っていく。その向こうには心配そうな担任と憤然とした学年主任の顔が見える。
「んー、やっぱり熱あるねえ。熱、自分で測れる?」
「あ、はい」
差し出された体温計を掴もうとして、右手が彼の手首を握ったままだったことに気付く。慌てて放そうとしたにもかかわらず、指が固まったようにびくともしない。
「結城さん、まずは深呼吸しよっか」
養護教諭の声に従い、深く息を吸って吐く。
「もう一回。はい、吸ってー、吐いてー。肩の力を抜いてー、リラーックス、リラーックス」
気の抜けるようなまったりとした低音に指先の力が抜けていく。
彼の手首がようやく解放された。さり気なく手首をさすっている様子が視界の端に映る。
「ごめん、痛かったよね」
「あ、いや。そうでもない」
慌てたように手首を振ってみせる彼から気遣わしげな視線が向けられる。痛かったのはそっちの方だろ、とでも言いたげな、痛みを堪えるかのような表情だった。
「結城、腹見せられるか?」
唐突に学年主任の畠山が彼を押しのけるように迫ってきた。
「嫌です」
太ったトカゲみたいな畠山がわかりやすくかっと顔を赤らめていきり立った。
「嫌ってなんだ! 嫌って!」
「なんで先生にお腹見せなきゃならないんですか。セクハラです」
「何を言ってるんだ! おまえは事態がわかってるのか!」
「畠山先生、落ち着いてください」
激昂する畠山を担任の大内が止める。ここまでEQの低い人でも学年主任が務まるのか。学校の闇だ。
「ですから、私が確認します」
養護教諭の取り成しに、畠山はあからさまに憮然とする。そんな畠山を押しのけるように、養護教諭はベッドを囲む間仕切りカーテンを閉めようとした。
「三井くんごめん、そばにいて」
畠山の八つ当たりで肩を強く押されてベッドから離れようとしていた彼を呼び止める。養護教諭がカーテンに伸ばしていた手を止めて振り返った。
「あの、やっぱり男の人と二人はちょっと……」
熊のような風貌の男性養護教諭が「やっぱり?」と苦笑する。もう一人の女性養護教諭が見当たらない。この学校には年配の女性養護教諭と、若い男性養護教諭の二人がいる。
「今日は私一人なんだよね。ごめんね」
風貌に見合わない柔らかな声で謝られると、ただの言い訳として拒否するしかないこちらの方が申し訳なくなる。
「で、三井さんはいいの?」
好奇心を隠そうとしないこの養護教諭の名前はなんだったか。普段さっぱり縁のない場所だけにこれっぽっちも思い出せない。
「あー、はい。三井くんはいいんです」
彼こそ一刻も早く確かめたいはずだ。そのために呼び止めたのだから。
「三井さんって、もしかして結城さんの彼氏?」
「あー……」
戀は思わず言葉に詰まった。
「そうです。できれば僕の知らないところで彼女の腹部を他の男に見せたくありません」
恥じらうように目を伏せる彼の背後で、学年主任と担任が驚いている。戀だって驚いている。
「色々面倒なので今までずっと隠していました。できれば口外しないでいただけると助かります」
すみません、と彼が頭を下げた。
「あーだったらなおさら畠山先生の思い過ごしですね。現に結城さんの腹部を見なくても、どこにも血痕はありませんし、もしお腹切れてたとしたらこんなふうに落ち着いて話せませんよ。まあでも、疑いを晴らすと思って念のために見せてくれる? 三井さんも、いい?」
彼が頷くと、養護教諭は今度こそカーテンを閉めた。
小さな穴が空いているだろうシャツを養護教諭に見られないよう素早くようたくし上げてから、体温でぬくまっている薄い布団を勢いよくめくった。お腹が外気に触れたことで、きゅうっと躰が縮こまりそうになる。
「傷も痣もない」
養護教諭がわざと大きな声を上げた。きっぱりとした物言いは主に学年主任に聞かせるためだろう。その横に立つ彼の目が零れ落ちそうなほど見開かれている。
「なに、もしかして、彼女のお腹見るの初めて?」
「初めてですよ。当たり前じゃないですか」
布団を元に戻してその中でシャツを直していると、からかうような養護教諭とあたふたする彼のやりとりが頭の上を通り過ぎていく。
「じゃあ、結城さん。熱、測ろっか」
今度こそ体温計を受け取ると同時に、学年主任が断りもなくカーテンを開けた。
一部の女子が三井 絢斗に執拗に絡んでいたのはクラス中が知っている。
期末試験を翌週に控えた貴重な自習時間に、細川 珠希がこれ見よがしな猫なで声を三井 絢斗に絡みつけていた。三井 絢斗が苛立ちを堪えているのは明らかで、細川 珠希に追従する一部の女子を除いて、試験直前の教室中が彼女の粘り着くような声に神経を尖らせていた。
三井 絢斗はカッターを使って何かを作っているようだった。小学生の弟のためにクリスマスツリーに飾る雪の結晶のオーナメントを作っているところだということが聞くともなしに聞こえていた。いま雪の結晶に夢中でさ。なんだよ絢斗、余裕だな。ノート貸して。嫌だよ。いいじゃん、ここどうしてもわかんないんだよ。そんなやりとりがざわめきの中を漂っていた。
そのオーナメントを細川 珠希が欲しいと言い始めた。あまつさえ隙を突いて三井 絢斗の手から奪い、自分の胸ポケットに収めたのだ。返してほしかったら自分で取って、と挑発するような細川 珠希の声が教室中に響いた。じゃあいらね。ふふ、絢斗からのクリスマスプレゼント。返せ。くれるって言った。言ってない。私のために愛を込めて作ってくれたんだよねー。
そこで三井 絢斗の怒りが爆発した。いい加減にしろ! 三井 絢斗の低く抑えた怒鳴り声に教室内が水を打ったように静まり返った。彼の本気の怒りをそこにいた誰もが感じたはずだ。
残念ながら細川 珠希はそこで素直に返すような性格ではなかった。確かに細川 珠希はきれいな子だ。何度か雑誌に掲載されたこともあるらしく、本人もそれを自慢するような、そんな子だった。
細川 珠希は三井 絢斗を挑発するように胸を反らした。ほらここ。絢斗の愛はここだよー。三井 絢斗から怒りが膨れ上がった。かちかちかち、と音を立ててカッターの刃がこれでもかと迫り出されていく。三井 絢斗がカッターの刃先を細川 珠希に向け、返せ、と低く唸った。だーかーらー、取ればいいでしょ。べったりと粘り着くような彼女の声が教室中の不快を煽る。
充満した不快の中で三井 絢斗の怒りが弾けた。
カッターを持つ三井 絢斗の肘が後ろに引かれた。
咄嗟に戀が二人の間に躰を入れたのはそのときだ。
最初に悲鳴を上げてその場から逃げ出したのは元凶の細川 珠希で、その尋常ならざる悲鳴に同調するかのように、一斉に教室中の生徒が教室の出入り口に殺到し、二年三組は一時的なパニック状態に陥った。
「せっかくの自習なのに細川さんの声がもうとにかく耳障りで、おまけになんだか熱っぽいし、どうせ勉強にならないなら保健室で休ませてもらおうと思って立ち上がった途端ふらついて、咄嗟に三井くんが支えてくれました」
「それまでのやりとりは?」
「聞こえてました。ですが、細川さんの三井くんへの悪質な迷惑行為は常態化してましたし、注意すると彼女の場合逆効果にしかならないのはみんな知ってます。本人の気が済むまで放っておく以外の対処法があるなら教えてほしいくらいです」
ここぞとばかりに言ってやる。彼女のやり口には彼はもちろんのこと、少なくともほとんど関わりのないただのクラスメイトである戀だって辟易していたのだから、彼の友人たちもさぞや迷惑していただろうことは察して余りある。あれはある種のイジメだ。
細川 珠希が執拗に三井 絢斗に絡む理由がわからない。彼女の絡み方はどう贔屓目に見ても嫌がらせだとしか思えない。
担任の大内もそれについては承知しているようで、「何度も注意してるんだけどねえ、細川さん、聞く耳持たなくて」とこぼしている。
「畠山先生はご存じなかったんですか? 彼女のストーカー行為」
不法行為であることをことさらに強調する。学年主任は苦々しい顔で「聞いていた」と認めた。
「三井くんの行動は褒められたことではないかもしれませんけど、それ以上に細川さんの方が悪質です。現に細川さんは三井くんのことをこれでもかって煽ってましたし」
同じ意見が他の生徒の口からも聞こえていたらしい。あれは細川が悪い、むしろ絢斗はよく我慢してた、等々。全面的に三井 絢斗を擁護する声が多数だったことを、何気ないふうを装った担任の口から学年主任に向かってごりごり押し出される。
学年主任も反論のしようがないのか、もごもごと口の中で何かを呟いた。
「まあ、一応細川も反省してるって言ってますしねえ」
口先だけの反省だろうことは担任もわかっているのだ。普段おっとりとした大和絵に出てきそうな引目鉤鼻の大内の口調に珍しく嘲りが含まれていた。
「彼女のストーカー行為、警察に相談した方がいいんじゃない?」
養護教諭の声だけが真摯に響いた。
「それは大袈裟すぎる」
迷いなく保身を口にする学年主任に養護教諭と担任は侮蔑の視線を送っている。学校の闇だ。
「何かあったら、ここに逃げてきていいからね」
養護教諭のグローブのように大きな手が彼の肩でぽすぽすと労るような音を立てた。