虚空の鼓動
其の捌


 白の屋敷を訪ねてきたのは肆の美鬼。
 それを聞いて奏は、はて、と首を傾げた。奏が知るところは参の美鬼まで。彼らは皆年若く、もしや肆の美鬼はまだ代替わりしていないのかと、一人勝手に推し量った。
 奏の当て推量が的を射ていたのか、奏の様子を伺っていた白がそれに応えるかのように小さく頷く。
「肆の美鬼は、その代の全ての始末をつけます。それゆえ、他の鬼より遅れて生じます」
 目の前にちんまりと座った奏とその直ぐ脇に控えるように腰を下ろした白とのやりとりを目にしていた肆の美鬼は、奏にそう話して聞かせた。

 そして、肆の美鬼は居住まいを正し、白と並び座る奏に向かって深々と頭を下げた。
(われ)は肆の美鬼、名は(せい)
 いきなり告げられた真名に奏は驚く。頭を上げ、奏の様子を目にした肆の美鬼、青も驚いたように奏を凝視していた。
「余のそれを得ましたな。ビャクはそれを与えられるほどの鬼力を……持たぬはず。如何にして告げたつもりのない余のそれを得たものか」
 言葉をひとつ飲み込んだような妙な間を挟みながら、青がじっと奏を見据える。
 奏が助けを求めるように傍らの白に目を向ければ、白は苦々しい顔で仕方がないとばかりにひとつ頷いてから口を開いた。
「真名を告げるは命を預けるも同義。この者に隠し立ては必要ありません」
 そう告げた白は奏から視線を転じ、青を睨むようにじっと見遣る。青もまた、白をじっと見返す。それはまるで、互いの腹の内を探り合っているようであった。

「今代様は人に在りて真名を持ちます」
 低く抑えた声で、白は青に告げた。
「お主が与えたわけではないということか」
 目を瞠って奏を見据えた青は、難しい顔で考え込んだ。
「すでに私と真名を交わし終えております」
 暫しの静寂の後に白が告げると、青はわずかに目元を緩めた。

 奏には青が安堵したかに見え、ふと首を傾げる。
 白と奏が契りを確かにしたことに青が安堵するわけがわからない。白から聞いている限り、他の鬼は未だ奏を我が物にしたいはずだ。
 ところが、目の前の青にその気配は見受けられない。それどころか、奏を見る目は他の鬼のように物を見る目ではなく、白と同じ人を見る目だ。しかも、飢えも渇きも感じさせずただひっそりと凪いでいる。それもまた、白と同じだった。
 それは肆の美鬼という特異な立場からくるものなのか。他に理由があるのか。単に奏の見当違いということもある。

「人に在りてそれを持つ、鬼のそれを得られる存在──」
 まるで己に言い聞かせるかのような青の呟きに、白はあからさまに顔を歪めながらも、青が敢えて肝心なことを口にしない心遣いに感謝していた。
 ふと、青は気を取り直したかのように奏に目を向けた。
「先代のコウ様は最後に真名の力で何をなさったか、今代様はご存知であろうか」
 コウ、それが先代の名。奏は口の中で繰り返す。
 先代はもとより奏に真名があることを知っていたのだろうか。それとも、あれはこの先奏が真名を持つことを見越した上での助言だったのだろうか。

 白は、青のその一言で、奏に声が戻ったのは、先代が奏に真名の力を使った所為だと知った。人に与えし真名にそのような力があるなど、白はこれまで耳にしたことがない。
「鬼がこの界にて人に与えし真名は、その真名を返上する代わりに一度だけ、その力を振るうことができます」
 そう話し出した青は、それまで白が知り得なかったことを奏に向けて語り出した。
「そもそも、この界に鼓動を持つものは立ち入れませぬ。ここは鼓動を持たぬものの界。鼓動を持つ人がこの界に在るには、鬼と契り、真名を得ねばなりませぬ」
「そのようなこと、これまで耳にしたことはありませんが」
「当然のこと。鼓動を持つものにしか肆の美鬼は語らぬ」
 青のぴしゃりとした物言いに、白の眉間がぐっと寄る。
「ならば、なにゆえ私にまで」
「お主は鬼神となるものであろう。おそらく──(まこと)の」
 白はぎりりと歯を食い縛る。
 まこと、その意味が未だ白にはわからない。一層眉間の皺を深めた白を、肆の美鬼は面白そうに眺め、奏は心配そうに見つめていた。
「よいか、ビャク。真の鬼神ばかりは生まれながらに鬼神ではない。お主の知る鬼神と同じではないと心せよ」
 それはどういう意味か、と白はその目を見開く。
「余に言えるのはそこまで」
 ぴしゃりと言い切った青は、訝しむ白をよそに、その視線を奏に戻した。

「して、コウ様は今際の際に何を願われましたか」
 青の言葉には、なんとしても識らねばならぬ、との決意がのせられていた。奏はひとつ息をついて心を定め、青を真っ直ぐに見据え、言葉を発した。
「先代様は、私に声をくださいました」
 その奏の一言に、青は眉を寄せた。
「詳しくお聞かせを」
 奏は、自分が幼き時分に高熱で声を失ったこと、最後に先代と会ったときに喉を掴まれたこと、その時彼女は小さく何かを呟いていたこと、呟きは聞き取れなかったこと、それらを青に話して聞かせた。

 黙して奏の話に耳を傾けていた青は、奏が話し終わってもなお、眉間の皺を一層深め黙り続けた。
「人に与えし真名に、そこまでの力はありませぬ」
 ようやく言葉を発した青に、奏は首を傾げた。そう言われたところで、事実、奏は声を取り戻している。
「それに間違いはありませぬ。全ての鬼と契りしコウ様に、真名を与えたのは余」
 稀代の鼓動を持つ者がひと鬼を定めず、全ての長と契った場合、その瞬間、その前代の肆の美鬼の命は残すところひと月ほどになる。その間に稀代の鼓動を持つ者に、鬼の界にて生きる術を授ける。
 ひと月後、代替わりしたその代の肆の美鬼が鬼の界に辿り着き、その最初の務めが稀代の鼓動を持つ者に真名を与えること。
 生まれたばかりの赤子が、いかようにして真名を与えるのかと、奏ばかりか白までもが訝しげに青を見遣る。
「肆の美鬼ばかりは、生まれたばかりの赤子にありませぬ。人の界にて育ち、人の界の知識を持つ、十六になるその前の晩に運悪く命を落としたうつけが肆の美鬼となります」
 肆の美鬼は、自嘲の笑みを浮かべた。

 次々と告げられる事実は白にとって初めて()ることばかりだった。
 白の隣で奏はその意味がわからずとも、聞いた通りをそのままのみ込み、そういうものだと決めてしまっている。白もこの際それに倣い、そういうものだと丸呑みした。青が真名を告げている以上、それが真実であることは明白。
「ならば、稀代の鼓動を持つ者がひと鬼を定めた場合、肆の美鬼の務めとは」
「何もありはしませぬ。己が代の始末をつけ、次の代替わりまで楽隠居するだけ。今代の肆の美鬼は生まれませぬ。余は人の界に戻ります。此度はその挨拶に参った次第──」
 不意に何を思ったか、言葉を途切れさせた肆の美鬼は、再び奏に目を向けた。
「ひとつお聞かせくだされ。今代様に真名を与えし者は」
「祖母です」
「では、その御祖母様の名をご存知であろうか」
 奏の目が見開かれていく。
「存じません。おばあは、おばあとしか……」
 それを聞いた肆の美鬼の目も、白の目も、大きく見開かれた。

 人の世にあって、親しき者の名を知らぬということは有り得ない。誰にでも何にでも名を付けるのが人という生きものだ。
 人の界に存在できるのは名を持つからこそ。
 名を呼ばれることで、その界にその存在が根付いていく。
 名を呼ばれぬもの、名を呼ばれなくなったものは、人知れずその命を縮め、早々に儚むのが常。

 奏は今にして初めて祖母の名を知らなかったことに気付き、わけがわからず困惑する。これまで一度たりとも怪訝に思わず過ごしてきたことが一層困惑を深めていた。
 おそらく家族も、村の者も知らなかったであろう。知っていればいずれかで奏の耳にも入ったはずだ。

「今代様を捜し当てたのは、ビャク、お主で間違いないな」
 青の問い掛けに、白はそれがどうしたと言わんばかりに頷く。その途端、青の目が爛々と輝きだした。
「これは……楽隠居している場合ではなさそうだ。そうか、当代か。そうか、そうか」
 どこか興奮したように独りごちる青に、白も奏も首を傾げる。
「ビャク、余の間を用意いたせ」
 肆の美鬼は自らの場を持たない。
「まさか、ここに居着く気ですか」
「悪いか?」
 青は悪びれることなくそう言い放った。
「悪い。そもそも何を悟ったのか、しかとお聞かせください」
 いつになく厳しい白の声が奏の肩をびくりと震わせる。
「よいのか、言うても」
 明らかに面白がっている青に、白の顔は一層険しさを増す。
「ほれ、今代様の鼓動が剣呑に震えておる。その険をなんとかいたせ」
 肆の美鬼が声を上げて笑う。それを白は苦々しく睨み付けた。

 人の界に十五まで在ったとなれば、青が言霊を持つ者について知っていたとしてもおかしくはない。白の知るこの肆の美鬼は、とにかく博識だ。おそらく人の界においてもそれ相応の立場にあったはず。
 白はそこまで考え、やはり肆の美鬼は奏の力に気付いたことを悟る。それを契っていない青が口にしてしまえば、いずれ域を同じくする他の鬼にも知られてしまう。先ほどから、敢えて言葉を濁した言い方や、今なお明言しない青の態度は、白や奏に仇成すものではないと白には思えた。
 なにより、青は白にも奏にも真名を告げている。それは、命を預ける意味でもある。
 長ともなろう鬼が他の鬼に真名を明かすなど、白はこれまで聞いたことがない。なにゆえ青は真名を明かしたか。その一点に疑問が残る。
 白の様子を注意深く眺めていた肆の美鬼は、白が理解した様子を見て、まるで子の成長を見るかのように満足気に笑った。

 急にその表情を引き締めた青が、言葉を真っ直ぐ白に投げた。
「して。そのかりそめを解いて見せよ。お主は今、どこまでの鬼力を持つのか」
 ぎょっとした白は、一瞬その目を泳がせた。
「隠し立ては無用。余は鬼神に沿うものなり」
 凜として聞こえた青の言葉は、決意と覚悟が忠義に包まれていた。

 それをまざまざと感じ取った奏は、意識する間もなく小さく「まこと」と紡ぐ。
 途端、白の色が雪色から目映い銀色に変わった。
 それを目にした青は、驚くよりも納得の顔で頷き、奏が再び「かりそめ」と呟くと、白の色が見慣れた雪色に戻った。

「奏、何度同じことを言えばわかるのですか」
 白の怖い顔を見るまで、奏は己が出過ぎた真似をしたことに気付かなかった。奏が謝罪を口にするより先に大きく息を吐いた白は、その雪色の双眸を青に向けた。
「他言せぬよう」
「心得ておる」
 青の真剣な眼差しが奏に向けられる。
 白の視線も静かに奏に注がれている。
 はからずもふた鬼の視線に定められた奏は、出過ぎた真似をした後ろめたさから落ち着きをなくす。
 その様子に気付いた青がさり気なく奏から視線を外し、白に問いかけた。
「今はいかほどか」
「六つは解せました」
 ふた鬼の会話がわからないのは奏ばかりで、彼らは当然の顔でやりとりをしている。
「ならばこれは」
 青が手のひらを前に出すと、その上に淡く光を放つ拳ほどの珠が浮いていた。あまりに美しい光の珠に、奏の目が釘付けられる。
 白がそれに向かって手のひらを向けると、光の珠は煌めきを残して呆気なく消えてしまった。
「次は八つ」
 青が再び手のひらに光の珠を浮かべると、白は先程よりもゆっくりとその珠を消していった。

「ならば、九つは、どうだ」
 その言葉にビャクの目が瞬く。
「肆の美鬼は九全域まで成せるのか」
 白は肆の美鬼は弐の美鬼同様八全域だと聞いていた。九全域を成せるとなれば、実質この域での最高位は肆の美鬼ということになる。
「さもなくば鬼神の名代は務まらぬ。鬼神なき域を影で支えるのも肆の美鬼の務め」
「弐の美鬼ではなかったのか」
「表向きは彼奴の務めである」
 青が少し意地の悪い顔で笑うと、それを見た白の眉間に皺が寄った。
「常々、肆の美鬼は何をしどこに在るのか、答えてはいただけぬのでしょうな」
 肆の美鬼ばかりは場を持たぬゆえ所領も持たず、必要にならない限り姿も見せない。肆の美鬼に謎は多い。
「よいではないか。これからはこの場に在る。ほれ、九つを試してみよ」
 さらりといなす青に促され、再び白が光の珠に手のひらを向けるも、光の珠は揺るがない。一度手を下ろし、ふうっと深く息をついた白が再び手のひらを向けると、光の珠がひとつふたつと瞬きはするものの、変わらず青の手のひらに浮いたまま。
 力を込め続ける白の顔が苦しげに歪んだ。

 思わず奏は力一杯「白さま、あと少しです」と鼓舞の声を上げた。すると、光の珠が忙しなく瞬き始め、ほどなくして微塵に砕け、ぱあっとあたりに煌めきを撒き散らしながら溶けるように消えていった。あまりに美しい光景に、奏の目は眩しそうに眇められる。
「やはり、十全域を成したのは、お主で間違いなかったか」
 煌めきの余韻がきれいさっぱりなくなる頃、青の静かな声が座敷に染み込んでいった。

 奏の助けがあったにしても、九全域を解すことができた己が力に、白はしばし呆けていた。
 奏と出逢う前まではなんとか五全域を成せる程度だった。それが、さきほど六全域を解せたことに驚いたばかりだというのに、その力は九全域を解せるほど一足飛びに跳ね上がっている。
 ゆっくりと奏にその目を向けると、煌めきの余韻に酔いしれている奏はうっとりと目を細め、どこかに心を飛ばしていた。
 またしても言の葉を使ったことに気付いていない。
 白が口を開こうとしたとき、青の言葉がそれを遮った。
「その意味を考えてみよ」
 なにもかも悟ったような青の目は驚くほど静謐だった。その一方で、何一つ教えてはくれぬであろう頑なさを宿し、それでいて、どこか面白がるように細まっている。

 肆の美鬼の存在の意味、己の存在の意味、奏の言霊の意味、あらゆる謎が白の胸の内を渦巻いている。
 眉を寄せ顔をしかめる白を眺める青の眼差しは、まるで子か孫を見守るかのようであった。

 その後、またもや無意識に言霊を使った奏は、白にこってり叱られたのであった。