虚空の鼓動
其の陸朝餉を口にしながら、カナはふと気になった。
時分時に喋るな、とは父の教えであったが、ビャクは「食事は会話を楽しみながらするものです」と言う。郷に入っては郷に従うのが筋と、カナは幾分かすわりの悪い思いをしながらも口を開く。
「ビャクさま、私がここに来てどのくらいになりましょうか」
「鬼の界ではひと月ほどです」
口元に匙で運ばれてきた粥をぱくりと頬張り、カナは僅かに首を傾げた。鬼の界では、とは一体どういうことか。
カナは匙にのった粥を冷ますためにふうふうと息を吹きかけている背後のビャクを振り返り仰ぎ見る。
「ん、ああ、確か以前、鬼は時に縛られていないと話しましたよね」
道理まではわからずとも、そう聞いていたことは確かだ。カナは、はい、と答える。
「鬼の界はカナのいた人の界とは少しばかり時の進みが異なります」
はて、とカナは小首を傾げた。またしてもビャクは難しいことを言う。
鬼の界に鼓動を持つ者が存在しなければ、時が流れることはない。
鼓動を持たぬものは、ただ虚ろに風化するばかり。
鼓動を持つ者は鬼の力を整えるばかりか、その鼓動で時の波を生み出し、時の流れを作りもする。
時は常にその場にあるもの。その流れを生み出せるのは稀代の鼓動のみ。
人は、鼓動を持つがゆえに時の流れに逆らえない生きもの。
鬼は鼓動を持たぬがゆえに時の流れから外れた存在。
その流れが、人の界と鬼の界では異なる。
「詰まるところ、カナのいた人の界は鬼の界よりおおよそ十から十二倍ほど時が先へと流れていきます」
倍、という言葉がすんなりのみ込めなかったカナは、今度こそはっきりと首を傾げた。首を傾げながらも、時の流れが違う、ということを頭に刻む。
そこに食べやすい温さになった粥が口元まで運ばれてくる。カナは運ばれてきたまま口を開け匙を含んだ。
結局、食事はビャクの鬼力で用意されている。あまりに切れ味のよすぎる菜切り刃でカナの指が傷付くこと数度。カナはビャクに菜切り刃を取り上げられた。
おまけに竈とは違う火を熾せる絡繰があり、やはりカナは何度か火傷をしている。
そのたびに大仰に心配するビャクは、もう我慢ならぬとばかりにカナに煮炊き禁止を言いつけた。途端にカナは目を潤ませ、「役立たずで……」と言ったきり、唇を噛み、皮が薄く切れた指先をぐっと握りしめた。慌てたビャクが「カナには家中の掃除を任せていますから、炊事くらいは私がします」と慰め、家のことは女がするものと思い込んでいたカナをなんとか説き伏せた。
「それに、カナは役立たずではありません」
その際、妙にきっぱりと言い切ったビャクに、カナは少しだけ悲しくなった。
カナは鬼にとって、ある意味大切な存在だ。カナが生きてこの界に在るだけで役に立っている。
それでもカナは、世話になっているビャクの役に立ちたいのであって、ただ生きているだけで、ただそこに在るだけでよしとされたくはなかった。それでは置物と同じだ。
カナは己が鼓動ではなく、カナそのものを必要としてほしかった。ただ声が出ないだけで、役立たずと罵られ続けてきたカナにとって、それは何よりも己を保つために必要なことであった。
「カナ」
不意に名を呼ばれ、カナは背後のビャクを振り仰ぐ。
ビャクの屋敷に来てからずっと、カナはビャクが口元まで運んでくるものだけを口にしている。
どういうわけかビャクは、幼子のようにカナを膝にのせて食べさせたがる。初めこそ恥ずかしさと子供扱いされているような情けなさを覚えたものの、しばらくするとそれも当たり前のようになってしまった。
ビャクが楽しそうであれば、子供扱いも致し方ない。カナはある意味諦めていた。
「家族のことが気になりますか」
カナは考える前にこくりと頷く。「かぞく」という聞き慣れない硬い音は家の者のことだと鬼の界に来てすぐにカナは白から教わっていた。
ビャクは、ふむ、とひとしきり思案した後、口を開いた。
「まずは、朝餉を済ませましょう。そのあとで、水鏡に映してみましょう」
はて、水鏡に何を映すのか。ビャクの言葉をもってすれば、家族の様子がわかるということではなかろうか。そう思い至ったカナは、ビャクをせっつくように自ら口を小さく開けて次の匙を待った。
ビャクの膝の上で急にそわそわと落ち着きをなくし、雛鳥のように口を開けて待つカナを見て、ビャクは思わずその頬を緩めた。
自らの手で日々の糧をカナに与えるのは、どういうわけかビャクの心を満たした。ビャクの差し出すものを疑うことなく口に含むカナを見ていると、なんとも気が穏やかになる。
ビャクの屋敷に来て以来、カナの鼓動は常に落ち着き、日々好ましい穏やかさであることも、ビャクを十二分に満たしていた。
いつもより心持ち早めに朝餉を済ませたカナが連れて来られたのは、ビャクが仕事と称してよく籠もる書物が多く積まれた間、書斎であった。
「確かこのあたりに……ああ、ありました」
積み重なる書物の山の隙間からビャクが引っ張り出したのは、美しく輝く滑らかな平桶のようなもの。それはまるでビャクの髪色のようで、カナの視線は平桶に釘付けられる。
「この銀の水盤に、カナの家族の様子を映してさしあげます」
銀、これが銀というものかと、カナはその目に隠しきれない興味をのせて、ほうと感嘆を多分に含んだ溜め息を吐きながら、感心しきりにそっとその水盤に触れる。
ひたと指先に吸い付くような滑らかな銀は、そっと触れたカナの指をくっきりと映し出していた。
「ここに水を張り──」
ビャクが小さな台の上に水盤を置いた途端、そこにはなみなみと水が湛えられていた。カナの目が大きく見開かれる。
水盤を満たす水が小さな波紋の広がりを止めると、それは鏡のようにあたりの景色を映し出した。
覗き込んだカナの顔がはっきりと映り込み、水盤の中のカナのどんぐり眼は零れ落ちそうなほど真ん丸に見開かれていた。
ほうっという長い吐息とともに、カナの真ん丸の目が徐に細まっていき、今度はうっとりとした表情に変わる。
鬼の界に来てからというもの、カナはそれまで目にしたことのない美しいものばかりを目の当たりにしている。
この水盤自体も滑らかに輝き、優美な細工が施され、とても美しい。しかし、水を張ってこそその美しさが際立つ。見たことのない花を模した銀細工が水の中でのびのびと美しさを綻ばせる。水を通すことで光の加減が変わり、とろりとした柔らかな表情を見せている。
カナが水盤の美しさをビャクに伝えるべく顔を上げると、ビャクはその目を細め、愛おしげにカナを見ていた。
ビャクは時々この目をカナに向ける。その度にカナの鼓動はどくりと音を立てて跳ね上がる。すると、ビャクは瞬く間にその表情を隠してしまうのだ。カナはそのたびに気落ちする。もしやビャクは己を想ってくれているのではないか、との浅はかな考えを即座に否定されたようなものだからだ。
一方で、それは決して他の鬼の目には浮かばなかったものでもある。他の鬼はカナをさも大切な物を見るような目で見ていた。ビャクだけは、最初からカナを人として見ていた気がする。ビャクの目にだけは、いつも何かしらの思いがあった。
「ここにカナの家族を映し出します」
気を取り直したようなビャクの声に、カナは気落ちしながらも、久方ぶりの家族を思うと、その鼓動もゆっくりと高鳴っていく。
ビャクが水盤に手を翳すと、それまで映っていた景色が歪み、その歪みが消える頃、懐かしさすら覚えるカナの暮らしていたあばら屋が映し出された。ぐっと胸にせり上がる郷愁をカナは懸命に抑え込む。
ふとカナは首を傾げた。その傍らで薪を割っているひょろりと背の高い男は誰か。
どことなく見覚えのある姿を凝視していると、薪割りの手を止めた若い男が、ぐうっと腰を伸ばした。その仕草に覚えがある。もしやこの年若い男はすぐ下の弟ではないか。カナは驚くと同時に、先ほどビャクが言っていた、時の流れが違う、という言葉が頭を過ぎる。
慌てて顔を上げれば、正面でカナの様子を伺っていたビャクが、カナの目を見てひとつ頷いた。
「カナの界では一年ほど時が流れています」
カナはそれを聞いて得心した。すぐ下の弟が、いつの間にか随分と大人びている。
再び薪割りを再開したその手は以前よりずっとしっかりとして迷いがない。すぱんすぱんと小気味好い音が聞こえてきそうな程、軽々と薪が割られていく。
「おかしいですね。わずか一年で使い切ってしまうほどの額ではなかったはずですが」
訝しむビャクに、カナは首を傾げるばかりだ。それまでと変わらない弟の様子を見て、やはりカナは首を傾げる。
「あれだけの金品を与えたのです。もう少し良い暮らしをしているかと」
そう言いながら、ビャクは険しい顔で再び水盤に手を翳した。
すると今度は、村全体が映し出される。まるで空の上から覗き込んでいるかのような景色に、カナはくるりと目が回り、肝が冷えた。
「おいで、カナ」
カナの様子に気付いたビャクがカナを呼び寄せ、その背後からカナを抱えながら、水盤を覗き込む。
腹にビャクの手が回り、背中越しに確かな存在と体温を感じたカナは、縮み上がっていた肝が緩み、再び水盤に目を向けることができた。
まるで鳥にでもなったかのように、水盤の景色はあちこちに飛び回った。
そして、村長の息子の脇に収まる煌びやかな小刀を映し出す。これはカナにも覚えがある。ビャクが持ってきた品だ。
普段は聞き分けのよいすぐ下の弟がどうしても欲しいと言い張ったことをよく覚えている。
よくよく見れば、村長の息子の着ている着物も帯も、それまで見たことがないほど立派なものだ。おまけに心なしか以前よりふくよかになり、随分と血色がよい。それに比べ、さっき見た弟は背だけは伸びていたものの、カナと別れたときと変わらず痩せこけ、血色もあまりよくなかった。
カナはそこでようやく、ビャクの言葉に得心が行った。変わっていないことがおかしいのだ。
「さて、どういうことでしょうね」
ビャクの声が冷え冷えとしている。仰ぎ見たその目が怖いくらいに険しい。
カナにはその理由がやすやすとわかった。村長の妻だ。
村長は人が好く公平で皆に慕われていた。ただし、その妻は皆に自らを奥方様と呼ばせたり、時々人の物を取り上げたりと、好き勝手をするような人だった。妻に頭の上がらない村長は、彼女が勝手をする度に頭を下げて回り、代わりの物を与えては、毎回なんとかその場を収めていた。
おそらく、カナの家族も彼女に粗方の物を取り上げられたのだろう。おまけに人のよい両親のこと、村の皆に進んで分け与えもしたはずだ。そもそもカナの暮らしていた村は総じて貧しかった。特に米などは皆に喜ばれたことだろう。
「少し懲らしめてきます」
翌朝ビャクは、昼には戻ると言い置いて出掛けていった。懲らしめられるのが誰かなど、カナは訊かない。
あれはカナの身代わりの品だ。カナの家族以外が手にしてよいものではない。米や銭を皆で分け合ったとしても、ビャクが持ってきた品々はカナの代わりに手元に残したかったはずだ。あの小刀も大刀と一揃いだったはず。大刀は武士にしか許されないが小刀は武士でなくとも帯刀が許されている。
普段は我が儘ひとつ言わない弟が、どうしてもと譲らなかった気持ちがカナには痛いほどわかった。
二人の妹や末の弟も、それぞれがカナの代わりの品を手にして、突然訪れた別れを歯を食い縛って耐えていた。
母は声をもらさないよう必死に堪えながら、堪えきれない涙をほろほろと零し、父は咎も覚悟とばかりに、神の遣いなどという逆らうことのできない存在をただ一心に睨み付けていた。
どちらにしても十六になれば家を出ると決めていた当のカナは、すでに別れの覚悟ができていた。できていなかったのは家族の方で、下の弟などは、一生面倒を見る気でいた、とその場で叫び、カナの決意を大きく揺るがせたものだ。
ビャクはその一部始終を目にしている。
それらを与えたビャクが怒るのも無理はない。カナも腹に据えかねる。
ふとビャクの気配を感じ、カナは膝につけていた額を上げた。
「まさか、ずっとここにいたのか」
驚きがすぎたのか、ビャクの口調がいつもと違うことに、カナは少しだけ首を傾げた。カナを浚うように素早く抱き上げたビャクは屋敷の奥へと急ぎ進む。
「躰が冷え切っている」
カナはビャクを見送ったまま、戸口の脇に膝を抱えて座り込み、そのまま考えに耽っていた。
どうしてかカナはその場でビャクが帰ってくるのを待ちたかった。ビャクはカナの代わりに懲らしめに行ったのだから。
ビャクはカナの着物を剥ぎ取るように手早く脱がせ、カナにあっと声を上げる間すら与えず、勢いよくどぶんとカナを湯船に入れた。いつの間に湯殿の用意をしたかなど、鬼力を持つビャクには訊くまでもないこと。
湯の中に肩まで浸かったカナは、ようやく思っていた以上に躰が冷えていることに気付いた。いつもより湯を熱く感じる。ぴりぴりとした痛みをともないながら、ゆっくりと痺れるかのように躰が温まり始めた。
「よいですか、ここはまだ春先です。カナの屋敷にも梅が咲いていたでしょう。外の様子が見えないせいで、季節がわからないかもしれませんが、玄関に座り込むなど、病を呼んでしまいます」
湯殿の扉の向こうから聞こえてきた小言。
ビャクの口調が戻っていることに、カナは湯に浸かりながら首を傾げつつ、やはりあの木は梅であったか、と違った方向に意識が向かう。カナの知る梅よりもずっと華やかな花を咲かせていたのだ。
ひとつ物を知った喜びに、カナの口元が自ずと綻んだ。
すっかり温まったカナは、ビャクの家に来てから用意されている、それまでと同じ小袖を身に着ける。見慣れた着物であっても、その質はまるで違う。動きやすさでいえば、あの豪華な屋敷に用意されていた服という衣の方が格段によかった。それでも、着慣れた小袖の方がカナは心が落ちつく。
毎朝寝間着から着替えるとき、カナはビャクと着物の色を合わせている。それまでなかった選べること、合わせることの楽しさは、その悩ましさすらカナにとっては喜びだった。
湯殿の前室、ビャクがいう脱衣所の扉を開けると、頃合いを見計らったのかのようにビャクが迎えに来ていた。
カナを抱え上げたビャクが足早に向かったのは書斎。
「覗き込んでご覧なさい」
ビャクが水盤の前にカナを降ろす。
言われた通りカナが覗き込めば、水を湛えた水盤には末の弟が大きく映し出されていた。
末の弟の目が見開かれ、その口がぱくぱくと動く。すると、その背後に家族が集まってきた。弟妹たちの手には、あの日歯を食い縛りながら握りしめていたカナの身代わりの品がある。あの小刀を手にしたすぐ下の弟が、嬉しそうに笑っていた。
笑みを浮かべる弟妹たちは、その誰もがひと月前よりも随分と大人びている。
時の流れの違い。カナはそれをまざまざと見せつけられた。それでも、カナにとっては家族と再び顔を合わせられた喜びの方が大きい。
母はまたしてもほろほろと涙を零し、父はむっと口を引き結び、繰り返しただひたすら頷いている。
「毎日顔を見せてあげなさい」
聞こえてきたその声に、カナは弾かれたように顔を上げた。
もう二度と会えないと覚悟していたカナは、信じがたいとばかりに目を見開いてビャクを凝視する。
「あちらにも水盤を置いてきましたから」
ビャクはわずかな照れを隠すように心持ちいつもより早口に告げる。目に涙をためたカナが飛びつくようにビャクに抱きついてきた。
鬼の腕の中に迷いなく飛び込んでくるカナの存在は、ビャクの心をどこまでも満たしていった。