虚空の鼓動
其の肆ビャクの屋敷は他の長たちの屋敷よりも小作りで簡素だというが、カナにとってはとんでもなく大きくて立派な屋敷だ。
ビャクが玄関と呼ぶ出入口からは中庭が望め、その中庭をぐるりと囲うように広縁が巡っている。
玄関の左右には畳敷きと板張りの応接間がそれぞれあり、畳敷きの応接間の先には同じく畳張りの客間、物置、ビャクの書斎、寝所と続く。板張りの応接間の先には、やはり同じく板張りの客間が続き、物置、居間、ビャクが台所と呼ぶ厨や湯殿などの水回りが続いている。さらに厨の奥には離れもあり、カナにしてみればとんでもなく贅沢な造りだ。
残念なことに、可憐に設えてある中庭は、カナがひと目見たのち板戸で塞がれてしまった。
ビャクがこの屋敷に一人で暮らしていると知ったカナは、置いてもらう代わりに屋敷の中のことは任せてほしいと願い出た。
カナは、兎にも角にもビャクの役に立ちたかった。
奥の座敷に閉じ込める気はない、とビャクから聞いたカナは大層喜んだ。締め切られている板戸を開けない、屋敷からは出ないという条件はあれど、その中では好きなように過ごしてよいと続いたビャクの言葉に、カナは一層その笑みを深めた。
「私のカナを他の鬼の目に曝すなど、有り得ませぬ。屋内からは決して出ないこと。よいですね」
真面目な顔のビャクに念を押されたカナは素直に頷いた。
座敷牢に閉じ込められると思い込んでいたカナにとって、この広い屋敷の中を好き勝手に歩き回れるなど、これまでと比べても十分すぎるほどであった。
ふくふくと幸せそうな笑みを浮かべるカナに、ビャクは呆れたように笑う。
「これしきのことでかように喜ぶとは。今のうちに望みがあれば、お教えおきください」
ビャクと一緒に屋敷の中を案内されていたカナは、その足を止めしばし考え込んだ。カナが思い付くのは、一緒に食事がしたい、ただそれだけ。
「私はカナとは常に一緒にいますから、それ以外でお願いします。寂しがりさん」
カナが未だすらすらと出てこない声を上げるより先に、からかいを含んだビャクの声の方が早かった。それを聞いたカナの表情が見る間に綻んでいく。
そんなカナの様子を目にしたビャクは驚いたようにその目を見開いた。
「ただ一緒にいるというだけで、そうも喜ばれますか」
満面の笑みで大きく頷くカナを、ビャクは引き寄せるようにその腕で囲った。
「カナの願いは、全て私が叶えましょう。どのようなときであろうとも常におそばにおりますゆえ」
ビャクの腕に囲われ、その温もりと言葉に喜びを感じていたカナは、はて、と首を傾げる。
「ビャク…さま、おつ…と…めは……」
己の名など呼び捨ててください、と言うビャクに、カナはことさら強く首を振って否を示した。カナにとってビャクは主となる者。呼び捨ててよいわけなどない。
あまりに必死にかぶりを振るカナを見て、ビャクは好きにさせることにした。
「私の務めはカナに選ばれたそのときからカナを守ること。定期的に長たちとの寄り合いに出掛けますが、それ以外はずっとカナのそばにおります。カナの鼓動を健やかに保つことが私の務め」
そのようなことでよいのか、とカナは再び首を傾げる。
「あなたはご自分の価値をご存じですか。こうしている間にも、弐の美鬼や肆の剛鬼があなたを狙っているというのに──」
そこで言葉を切ったビャクは、急に表情を改めて、腕の中のカナを見下ろした。
「カナ、眠っている間に紡いだ言の葉を覚えていますか」
ビャクに言われて思い出すのは祖母に教わった歌。それをこの鬼に伝えてもよいものか、カナは咄嗟に言い淀んだ。
カナの目が揺れたのを見て、ビャクは心得たとばかりにひとつ頷く。
「言えないのであれば言わずともかまいません。ただ、あなた自身がそれを承知しているかを知りたかっただけですので。カナがその言の葉を紡いだ刹那、この屋敷の周囲は十全域になりました」
何のことかと首を傾げるばかりのカナに、ビャクは言葉を続ける。
「何者たりとも入り込めなくなっています」
本来、ビャクの持つ鬼力であれば、畳二枚分ほどの結界を張り、その中にカナを閉じ込め隠し続けることしかできず、奥座敷どころか畳二枚分の空間しか自由にならなかったのだと、ビャクは己を厭うように顔をしかめた。
それを聞いてカナはますますわからなくなる。祖母から教わった歌は、大切な人にだけ歌うもの。それにそんな効き目があるとは聞いていない。その人の持つ本来の力をほんの少しだけ引き出すものだと教わった。
つまり、それはもともとビャクの持つ力ではないかとカナは考えた。それを未だ出し慣れない声を使って、たどたどしく伝えていく。
「歌…を、夢…の…中で、歌い…ました」
「それはどんな……ああ、かまいません。どのような歌かはいずれカナがよいと思ったときにでも教えてくだされば」
カナの目になんとも言えない感情が浮かぶのを見て、ビャクはその先に回ってカナを安堵させる。ビャクは言霊に関することをカナから無理に聞き出すつもりはない。そもそも聞き出せる類のことではないとビャクは考えている。
「歌は、その…人が、持つ…力…を、少し、引き…出す…と」
「つまり私の力だということですか。そのようなわけは──」
ビャクははっとしたように、後ろでひとつに束ねられている己の長い髪を目の前に翳し、じっとそれを眺めた後、その顔をカナにずいと寄せ、その目を見開いてみせた。
「色が変わっていますか」
そう言われてみれば、カナの目に映る雪色は少しだけ濃くなっていた。
おずおずと頷いたカナを、ビャクは瞬く間に抱え上げ、足早に奥へと進んでいく。
湯殿の前室にある大きな鏡に映るビャクの姿は、その髪も瞳もそれまでよりもほんのわずかに色付いていた。
「まさか──」
そう言ったきり、鏡に映る己の姿を凝視し続けるビャク。
そのビャクの腕に抱かれたまま、カナは途方に暮れた。降ろして、と声をかけるのも憚られるようなビャクの気配に、おろおろしながらもカナは口を噤んで身を小さくしていた。
じっと鏡に映る己の姿を睨み付けていたビャクは、その鋭い視線をカナに移した。
鬼力が上がるばかりか、その色まで変える力──。
「何者ぞ」
ぞっとするほどのビャクの声音に、カナの心が冷えていく。
その躰までが震えだそうとした瞬間、抱き上げるビャクの腕に力がこもり、カナの身は一段とビャクに寄り添った。
「何者でもよい。カナは私のカナだ」
まるで請うようなビャクの声音に、震え上がりかけていたカナは、はっとした。
ビャクはただカナを求めている。カナという存在そのものを求めている。ビャクの言葉込められた強い想いがカナの心を揺り動かす。
「カナ…は、ビャク…さまの、もの」
それはカナにとってすでに当たり前となっていた。契った相手ゆえなのか、カナは当然のように己はビャクのものだと思っている。
戸惑いながらもカナはその腕をビャクの首に回し、そっとしがみつけば、ビャクの腕にも一層力が入り、カナはその確かな力強さにどうしようもないほどの安堵を覚えた。
ビャクはその腕にある小さくも遙かなる存在を、どうしようもないほど渇望した。
もともと鬼であれば誰もが欲する鼓動を持つ者が、今は己の腕の中にある。ましてや契りを交わし、己と繋がった存在だ。その律動に感応するかのように血が騒ぎ、血が凪ぎ、血が昂ぶり、血が鎮まる。それは己にはあるはずのない鼓動を感じるかのような錯覚すら生む。
その全てを取り込んでしまいたい。
耐え難い渇きに突き動かされるように、ビャクは衝動のままにカナの唇に己の唇を重ね合わせた。
まただ。
ビャクは嫌悪する。カナに口付けるという己の行動が理解できない。それでいてカナの入り口かとも思える口から、その全てを貪りたい衝動が腹の底から突き上げてくる。
おまけに、カナはその全てを預けるかのようにビャクにその身を委ねているのだから、たまったものではない。まるで丸呑みしてくれと言わんばかりだ。
ビャクがその唇を舌先でなぞれば、カナは応えるかのように薄く口を開け、その口の中までもビャクに明け渡す。ビャクがその口内に舌を滑り込ませ、愛撫するかのように優しく撫で回せば、そのうちにカナの舌も応えるかのようにビャクの舌に寄せてくる。それがたまりかねるほどの欲を生んだ。
いずれその欲をカナにぶつけてしまいそうで、ビャクはそんな自分を情けなく思う。そのようなことになればカナは悲しむだろう。人の持つ欲を覚えるなど、鬼としてどうかしている。
それでもなお、その唇を離す気にはなれず、ビャクは気が済むまでカナの内を堪能した。次第にカナの体から力が抜け出す。どこまでもビャクを頼りにしがみつくその姿は、憐憫たる思いを抱えたビャクの心をこの上なく慰めてくれた。
その一方でカナは喜んでいた。ビャクに求められている。カナにはそう思えた。
カナと同じ年ごろの村の娘たちの中には、すでに夫婦となっている者もいた。カナには決して訪れることのない幸いを羨ましく思っていた。
夫婦になれるかもしれない。そんな淡い期待をカナは胸に灯した。
どこまでも自分を求めて欲しい。そんな仄かな想いをカナは秘めやかに胸に抱いた。
そこから始まったビャクとの暮らしは、カナに穏やかな喜びを与えた。
ビャクは言葉通り、常にカナの傍らに在る。とはいえ常にカナに張り付いているわけではなく、大抵は仕事をするための書物が山と積まれた書斎に籠もり、カナにはわからない何かをしている。
ときに長であるビャクを訪ねて所領の鬼がやって来るらしく、敷地の際まで出ていくこともある。
ビャクが屋敷から出るときは常にカナに声をかけ、どれほどで戻るかも必ず言い置き、その通りに戻ってくる。
カナは、ふと寂しさを覚えればビャクの傍らで手仕事をし、気が済むまでその気配を感じ、気が済めば再び屋敷のあれこれに精を出している。
ビャクの屋敷にあるものは、カナにとっては総じて初めて目にするものばかりで、使い方をビャクからひとつひとつ教わっては恐る恐る使っている。
ビャクはそれまで屋敷の中のあらゆる事を鬼力で賄っていた。それを止め、今はカナの好きにさせている。カナが望むなら座敷箒や雑巾まで手に入れ、カナの作る飯を口にする。
それまで雑穀粥のようなものしか口にしたことのなかったカナにとって、混ぜ物のない白米が毎食当たり前に膳に並ぶ贅沢には、いつまで経っても慣れる気がしない。
しかもビャクの屋敷には、米を研ぎ、釜に入れてひとつ処を押すだけで勝手にほかほかの白米を炊きあげてくれる絡繰があるのだ。
「とても、便利な、道具」
カナの声も随分と出るようになってきた。まだすらすらとまではいかないものの、声に張りが出て、言葉も続くようになっている。また、ビャクの使うかたい言葉にも慣れてきた。
「ああ、鬼は時に縛られていません。時を渡ることができますから」
カナにはときどき、いや、ビャクの言うことの大抵はよくわからなかった。よくわからないなりに、そういうものだと全てをそのまま呑み込んでいく。
ビャクは必要だと思うものから順に、カナに少しずつ知識を与え始めた。その全てを素直に取り込んでいくカナを、ビャクはいつも目を細め、慈しむように見つめている。
カナはそれが無性に嬉しかった。知らないことを知っていく喜び。教われば教わるほど、ビャクは嬉しそうに笑ってくれる。
「それゆえ、時を越えたものがここには集まっています」
時を越えるということがカナにはよくわからなかった。ビャクが鬼力で物を呼び寄せているのは知っている。それはカナの知るものから知らないものまで多岐にわたり、カナはそれを見る度に、ひとつひとつ素直に驚き、ビャクの目を和ませた。
ビャク同様、他の長たちも、あらゆる時の先や後から様々な物を鬼力によって呼び寄せているのだとカナは教わった。それでもそれは力のある長たちに限られたことで、他の鬼は人と同じように畑を耕し、日々の糧を得ているらしい。
人の界に紛れて暮らす鬼もいるらしく、それを聞いたカナは、人よりもずっと美しく逞しい姿の鬼が人に紛れることなどできるものだろうか、と首を傾げた。
「鬼の暮らしも人の暮らしも大差ありません」
ビャクの呼び寄せた野菜を切り、ビャクに教わりながらカナは飯の仕度をしている。カナはビャクの声にいちいち手を止め耳を傾ける。手を止めないことには、指を切り落としてしまいそうなほど、ビャクの屋敷にある菜切り刃はよく切れるのだ。
カナが知る煮炊きは、まさに煮るか炊くか、炙るしかない。ビャクはそれ以外の調理法をひとつずつカナに教えている。
それまで食べたことのないほど立派で味のよい野菜や、柔らかで臭みのない肉、新鮮で生でも食べられるという魚、そして、見たこともないほど多くの水菓子。おまけに甘味までもが当たり前のようにカナの目の前に並ぶ。
「贅が過ぎます」
「この程度は贅沢ではありません。最初の屋敷にいたときの方がよほど贅を尽くしていたでしょうに」
カナは誤魔化すようにへらりと笑った。一人で食べていた膳のことは憶えていない。憶えているのはビャクが食べさせてくれたときの膳の味だけ。
「まさか、一人で食べるのが寂しかったからといって、憶えていないわけではありませんよね」
どこか呆れを含んだビャクの声に、カナは困ったように笑う。その通りなので言い返すこともできない。
そんなカナの様子に、ビャクはふと目を細める。
「カナは本当に寂しがりですね」
ビャクははにかむように笑うカナを見て、どこまでも満たされていくような心地がした。己の存在をここまで求められたことなど、かつてあっただろうか。
為損ないと言われ続けてきた己が存在をビャクはどこまでも厭う。
本来であれば、ビャクはこの域に連なる、あらゆる鬼の頂点に立つ存在となるはずだった。そのように作られたはずだった。
にもかかわらず、ビャクは微かな色しか持たず、鬼力も他の長に比べ随分と劣る。だというに、ビャクを作りし鬼神は、至極満足そうに笑ったらしい。
そして、ビャクにただ一言を残した。
──まことをもとめよ。
残された言葉の意味は未だわからない。
時を越え、思い付くままにありとあらゆることを調べ尽くしても、その答えはどこにもない。言葉の意味はわかれど、それが何を指すのかがわからない。
たとえどの長にも劣るとはいえ仮にも鬼神が認めた存在であるならば、とビャクは目溢しのように長の座を与えられていた。その情けで与えられた座によって、カナの選択のうちに紛れ込むことができたのだから、これを僥倖と言わずしてなんと言うか。
あの場にいたどの鬼も、まさか為損ないが選ばれるなどとは夢にも思わなかっただろう。完全にビャクは蚊帳の外だった。
だが、カナはビャクを選んだ。あの場にいたどの鬼よりも劣るはずのビャクを。
必死に野菜を切り刻んでいるカナは、一瞥したところどこにでもいそうな人の娘だ。稀なる鼓動を持つ、それ以上の存在であるなど、あの場にいたどの長たちも予想だにしなかっただろう。
言霊を持つ者。
まことしやかな言い伝えでしかない存在。それが、目の前にいるカナだ。
ビャクは人に真名を持つものがあるなどこれまで知らなかった。いや、真名と称して名を秘する者があることは知る。だが、その真名は真名としての力を持つものではない。おそらくカナの持つ真名は紛うことなき真名であろう。言霊を持つ者が真名を持たぬはずもない。
全てを知りたい。カナの全てを暴きたい──そこまで考え、途端にビャクは己の欲を恥じた。
ビャクは人の持つ欲を覚えることをひどく畏れている。人から作られた存在とはいえ、人の持つ欲を覚えるはずのない鬼がそれに翻弄されるなど、為損ない以上に危ういのではないかとビャクは戦く。
己の思考が人に寄っていることをビャクは自覚している。自覚しているからこそ、それを厭う。
カナは、なにゆえビャクと定めたのか。
あの時、ビャクを指し示したとき、カナ自身も驚いていたように目を見張っていた。
カナが無意識に定めた存在、それがビャクだ。
カナをこの界に連れて来たあの日、カナの肌を暴いたあの時、ビャクは初めて女の姿形を知り、わずかに色を纏ったカナに人と同じ欲を覚えた。鬼であれば浮かぶはずもない情欲に、ビャクは混乱し、そして、嫌悪した。
ビャクは、鬼神に作られし己が存在を、改めて深く考え始めた。