虚空の鼓動
其の弐再び三鬼の美鬼が娘を訪ねる。
美鬼たちは美しい。透き通るような白い肌。月明かりの雪のように輝く髪は、それぞれ濃淡こそあれ空の色を含む。その瞳も同じで、美鬼たちは美しく澄み渡る空色の髪と瞳を持つ。
美鬼は鬼力が他の鬼より強い。その中でも弐の美鬼が随一だと、娘は聞かされた。
「そなたを守れるのは、我らのような鬼力の強い鬼なり」
娘は首を傾げる。守るとはどういう意味かと。娘の疑問は美鬼たちには通じず、それぞれ持ち寄った美しき音を奏でる楽器を用い、娘の興味を引こうとした。
初めて聞く雅な音色に、娘の心は華やいだ心地好さに包まれる。その鼓動を聴く美鬼たちも、惚れ惚れと演じ続けた。
再び五鬼の剛鬼が訪ねてきた。
剛鬼たちは逞しい。こんがりと日に焼けたような褐色の肌に、美鬼同様、鬼によって濃淡や色味は違えど輝く髪や底光る瞳は鮮やかな夕焼け色に染まる。
剛鬼は鬼力こそそれほどではないものの、胆力が強い。その中でも肆の剛鬼が随一だと、娘は聞かされた。
「そなたを守れるのは、我らのような胆力の強い鬼なり」
娘は再び首を傾げる。守るとはどういうことかと。娘の疑問は剛鬼たちにも通じず、それぞれが持ち寄った美しき剣で舞い踊り、娘の興味を引こうとした。
初めて見る豪儀な動きに、娘の心は楽しげに弾む。その鼓動を聴く剛鬼たちも、嬉々として舞い続けた。
再び二鬼の我鬼が訪ねてきた。
我鬼たちは愛らしい。ほんのりと赤みをおびた滑らかな白い肌。その輝くばかりの髪は青葉の色を含み、その瞳も瑞々しい若葉色だ。
我鬼は鬼力も胆力も美鬼や剛鬼には敵わぬが、その両方を程よく使い熟す。特に最たるは壱の我鬼だと、娘はここぞとばかりに自慢された。
「そなたを守れるのは、我らのような両の力を使い熟す鬼なり」
娘は確信する。娘の身は守らねばならないものらしい。では何からか。残念ながらその疑問は我鬼たちに通じることはなく、互いに持ち寄った遊具で好き勝手に遊び始めた。
初めて見るその愉快な遊具は、戯れに娘を驚かせた。その跳ねた鼓動に我鬼たちは声も高らかに笑い転げ、さも可笑しげに遊び続けた。
唯の鬼は、再び先代のもとに娘を連れて来た。
唯の鬼は色を持たない。その髪も月の光のように輝くばかりで、その瞳は薄らと灰を纏っている。
娘は黒。その髪も瞳も夜の闇のように黒い。娘の知る人は、誰もが同じ黒を持っていた。床の間で眠りについている先代も、髪は色が抜けてすっかり白くなっていたが瞳は娘と同じ黒であった。
唯の鬼は気力も胆力も他の鬼に劣る。どれほど巧に扱えたところで力の差はどうしようもない、と薄く笑う。そして、「差し出がましいことですが」と前置きした上で、娘に知恵を授けた。
「あなた様を守れるのは、弐の美鬼、もしくは肆の剛鬼でしょう。全てを選ばないのであれば、そのどちらかを選べばよろしいかと」
娘の目を覗き込んだ唯の鬼は、その中にある疑問に触れた。
「あなた様は稀代の鼓動をお持ちです。その鼓動を狙うのは、なにもこの域の鬼ばかりではありません」
唯の鬼の話によれば、今娘がいるこの鬼の域は、それまで娘が暮らしていた人の国と重なり合うように存在しており、鬼たちは戯れに人に紛れて人の世を楽しんでいるらしい。
人の界には国が無数にあり、ひいては鬼の界にも域は無数にある。
唯の鬼は噛んで含めるように娘に語る。
「鬼の域と人の国とは互いに絆されています。他の域には他の国に生まれし稀代の鼓動を持つものが在りましょうが、あなた様の鼓動は、先代様以上に強く心地好い。人の界に在ればほかの域からの手出しは無用ですが、鬼の界に在ればそれも可となります。より強い鼓動を求める、それが鬼の本能です」
先代が目覚めるまで、その眠りの妨げにならぬよう、床の間から離れた場所に唯の鬼と共に座った娘は、唯の鬼の囁きからそう教わった。
「ああ、これが最後なのね」
不意に聞こえてきた微かな声に、娘は急いで先代のもとに寄った。
「よいこと、よく聞くのよ。あなたは真名を持つ。その真名の力を一度だけ使うことができるわ。よく考えて、ここぞという時にお使いなさい。鬼に知られてはだめよ」
前回とは違い、ひそめられた先代の声には張りがあった。まるで声だけを聞いていれば年若い娘のような艶もある。
「もっと近くにおいでなさい」
先代の声音に疑問を感じ、その囁きに驚きながらも、娘は言われた通り床の間に上がり、先代の寝具のすぐそばまで詰め寄った。
「もっとそばに」
伸ばされた先代の手が届く位置まで娘はにじり寄る。
そっと弱々しく伸ばされていた先代の手が娘に届こうとしたそのとき、先代の腕は急に力を漲らせ、いきなり娘の首を鷲掴み、聞き取れないほどの微かな声で何かを紡いだ。
その刹那、娘の喉は焼けつくほどの熱を帯び、その口から小さな叫びが上がる。
先代の暴挙に驚き、唯の鬼が慌てて娘のもとに駆けつけたときには、既に先代は事切れていた。
「見せなさい」
目に涙を浮かべ喉を押さえる娘の手を、唯の鬼が無理矢理外す。外したそこには、つるりとした白い肌があるばかり。娘の口を無理矢理大きく開け、唯の鬼はその小さく開いた中を覗き込むも、別段変わったところはない。
「痛みは」
訊かれた娘は、そこで初めて熱はほんの一寸であったと気付いた。喉に触れ、唾を飲み込めど、そこにはひと欠片の痛みもない。娘はきょとんと首を傾げた。
その様子を目にした唯の鬼は、険しかった表情をほっと緩めた。
「先代様は何を……」
娘はすまなそうに首を横に振る。先代が何を言っていたか、娘には何ひとつ聞き取れなかった。
唯の鬼はじっと娘を見つめながらひとしきり思案し、ふと何かに気付いたようにその目を見開いた。
「声が、出ていた」
それを聞いた娘の目も見開かれていく。
「ぁ…」
微かに鳴ったしわがれの音。そこで娘は先の先代の言葉を思い出し、唐突に悟った。彼女は真名の力を使ったのだ。
慌てて先代に目を向ければ、彼女は満足そうにその口元に笑みを浮かべ、その鼓動を止めていた。
わずか二度、顔を合わせたばかりの娘に、先代は一世一度の大切な力を使った。そのことに娘の心が震え、自ずと涙が溢れる。真名の力をもってすれば、彼女の命の灯火はもう少し灯り続けていただろうに。
ほろほろとただ涙を流すばかりの娘を、唯の鬼はそっと抱き寄せ、いたわるようにその腕の中に包み込んだ。
湯に浸かりながら娘は考える。
どうして先代は娘が真名を持つことを知っていたのか。
あの後、先代はどうなったのか。
娘は唯の鬼の腕に包まれたまま、いつの間にか娘のためにと用意されている屋敷に戻っていた。
その唯の鬼の勧めでいつもより少し早めに湯に浸かっている。おそらく泣いてしまったこと、一人で考えたいこと、その両方を見抜いた唯の鬼が気遣ってくれたのだろう。そう考えた娘は素直に従った。
鬼にとって類い稀なる鼓動を持つ娘は、其の実、真名を持つ。
その真名は幼いころに祖母から教わった、大切なことのひとつだ。
──大切な、ただ一人と心に決めた人にだけ、その名を知らせなさい。
祖母が息を引き取る間際、娘だけがその枕元にいるときに、そっと辺りを窺いながら、真名と一緒に小声でそう告げたのだ。
祖母は何を知っていたのだろう。娘には、先代がどこか祖母に似ているような気がしていた。
明日、ついに娘は十六になる。
どの鬼のもとに身を寄せるべきか、娘は未だ決めかねていた。
身を守ることを考えるなら、唯の鬼の言う通り、弐の美鬼か肆の剛鬼のもとに行くべきだろう。娘にとって我鬼の戯れは心に悪い。できることなら毎日穏やかに暮らしたい──。
そこまで考え、娘はふと思う。唯の鬼は穏やかな心音を好むと言っていた。確かに、彼の側はうっとりすることもなければ、心弾むようなこともない。娘の心は常に穏やかだ。
ただし、かの鬼では稀代の鼓動を持つという娘を守り切れないのだろう。別の誰かに奪われる。鬼たちの話を聞く限り、娘の命が危ぶまれることはない。とはいえ、常に誰かに奪われる危うさが付き纏うのは、穏やかに暮らすどころではない。
もしや、と娘は思い至った。決めかねるからこそ、先代は自由を選んだのだろうか。
決めかねたまま湯を出た娘は、唯の鬼に教えられた通り、香油を手に取り、肌に塗り込める。髪にも同様に塗り込め、用意されている滑らかな肌着に袖を通す。
娘のためにと用意されている数々の品は、それまで娘が知ることもなかった上等なものばかりだ。どれほど娘が大切に扱われているかは、それを見ただけでもよくわかる。
肌着を身に着けると、頃合をはかったかのように唯の鬼が扉の向こうから声をかけ、娘の許しを待って中に入ってくる。そして、手早く娘を着付けていく。それまでとは違う、見たこともない雅な衣は、娘一人では到底着られない形をしていた。なにせ背中に留め具がついている。小さなつまみを引き上げるだけの留め具や、小さな丸いものを同じくらい小さな穴に通す留め具など、娘が今まで見たことも知ることもなかった形だ。鬼たちが身に纏う衣も見たことのない形をしている。唯の鬼だけは娘の知る着流し姿だ。
「喉の調子はいかがですか」
唯の鬼に問われ、娘は己が声を取り戻したことを思い出す。かつては意識することもなかった声の出し方を思い起こしながら、静かにそっと声を出してみる。しかし、かすれたような小さな音しか出てこない。無理に出そうとすれば、喉がひきつれたように痛んだ。
「無理をすれば喉を痛めます。毎日少しずつ声を出すようにしていけば、じきに当たり前に出るようになります」
こくりと頷く娘に、唯の鬼は同じようにひとつ頷いて応えた。
与えられている豪華な間に戻れば、夕餉の仕度が調っている。
一人きりで食べるのは、なんと味気ないことか。どれほど贅をこらした、今まで食べたこともないような品が並ぼうとも、一人きりで食べることが娘には堪えた。これまでは家族で少ないものを分け合ってきた。貧しい食事ながらも賑やかであたたかな楽しみでもあった。
ただでさえ明日には決めねばならぬ選択が迫っている今、娘は箸を付けることもできなかった。
「食欲がないようですね」
膳を下げに来た唯の鬼に訊かれ、どう答えればよいかわからず、娘はただその雪色の目をじっと見つめた。
「せめて水菓子だけでも」
唯の鬼は先が二股に分かれた小さな串に実を刺して、娘の口元にすっと差し出す。差し出された娘は、素直に口を開け、その実を口に含んだ。真っ赤な実は、口の中に瑞々しい甘酸っぱさを広げていく。
「甘いでしょう。苺といいます」
初めて聞く名だ。そもそも娘は今まで水菓子など口にしたことはない。再び唯の鬼によって差し出された実を、娘はおっとりと口を開け頬張る。再び娘の口の中に甘酸っぱさが広がった。おいしい。娘はここに来て以来、初めて味を覚えた。
「これは鯛の煮付けです」
唯の鬼はそう言いながら、箸でその鯛の身をつまみ、娘の口元に寄せた。娘はそれも素直に口に含む。おいしい。初めて知った複雑な味は、娘に感動をもたらした。今までも用意されたものを口にしていたはずなのに、娘はその一切を味わっていなかった。
「おいしいでしょう」
こくこくと頷く娘に、唯の鬼は甲斐甲斐しく食べ物を口に運ぶ。娘も運ばれてきたまま頬張る。おいしそうに口に含む娘の姿は、唯の鬼の目を和ませた。
気付いたときには娘は十分すぎるほどくちくなり、膳の上もきれいに片付いた。娘は手を合わせ、頭を軽く下げる。娘が顔を上げたときには、目の前にあったはずの膳が消えていた。驚く娘に唯の鬼が鬼力で膳を下げたことを告げ、さらにもう一言続けた。
「お心は定まりましたか」
娘は答えられなかった。訊いた唯の鬼は静かに娘を見下ろすばかり。
娘はただひと鬼を主とすることに決めている。しかしながら、どの鬼の束縛を受けるかは決めかねていた。
「わずか十日ほどで決めろと言う方が酷なのでしょうね」
それはそうだと言わんばかりに、娘はゆるりと頷いた。娘はこの先の全てを、ただ数回会っただけの鬼に委ねねばならない。鬼力か胆力か。そのどちらを選べばよいかさえわからない。
応えようのない娘は、ただ、唯の鬼の目を見つめ返すばかり。
「直感を。その時の直感を信じればよろしいかと。案外そのようなものかもしれません」
唯の鬼はそう言って、ほんのわずかにその口元を綻ばせた。それを目にした娘は、どこかほっとしたように肩の力を抜き、小さく頷き返した。
床に入り、娘は先程目にした鬼力を思い浮かべる。瞬く間に膳が消えた。信じがたいことだが、実際にほんのつかの間目を離した隙に膳が消えていたのだから、信じるよりほかない。
あのような驚くべき力が鬼にはある。鬼力が弱いといわれている唯の鬼すら、当たり前のように使う力だ。強いといわれている美鬼はどれほどのことができるのだろうか。考えれば考えるほど、娘はわからなくなる。力強く見える剛鬼は、わかりやすく頼もしい──。
そこまで考えた娘は、もしや、と思い至った。唯の鬼は鬼力というものを娘に知らしめるために、わざと膳を消して見せたのではないか。
美鬼と剛鬼。唯の鬼の言う通り、明日その顔を見て直感で決めよう。そう心を決め、娘はゆるりと目を閉じた。