三千世界の鴉
三千世界の鴉と出会い角を曲がった途端、飛び込んできた夕日に目が眩む。
今日は夏至だっけ、と思いながら目を細めたその先に、真っ直ぐ突き刺さってくるオレンジがかった光の中、黒いシミがぽつんとひとつ。
溢れる斜陽にとけることのない、小さな黒点があった。
手を翳しながら歩を進め、さらに目を細めてよくよく見れば、その黒点はカラスだった。よろよろと二三歩歩いて、そのままこてっと横に倒れた。道の真ん中で。若干右寄りに。
思わず足が止まりかける。
うわぁ。目の前で死にかけるとか、本当やめて。
心の中で悪態をつきながら、車二台がぎりぎりすれ違えるほどの道路の際の際を素知らぬ顔で通り過ぎようとした途端、その黒はか細く「かぁ」と鳴いた。その声がどうにもわざとらしく聞こえて、つい目を向けると、カラスとばっちり目が合った。カラスは念押しのように再度「かぁ」とわざとらしく鳴く。しかもその「かぁ」は今にも力尽きそうですと言わんばかりの、かすれた力ない鳴き方だった。
できれば関わり合いたくない。
そっと目をそらし、聞こえなかったふりを決め込んだところで、もう一度「かぁ」と鳴かれる。
自分の意思の弱さに嘆きながら、道の真ん中にいる黒に近付く。ざっと見たところ外傷はない。
「もしかしてお腹が減ってる?」
独りごちた声に答えるかのように、カラスが小さく「かぁ」と鳴いた。
小さく溜め息を吐き出しながら、買ってきたばかりのスーパーの袋の中から、カラスが食べられそうな物を探す。調理された物はダメだろう。ならば選択肢は少ない。
「キウイとサクランボ、どっちがいい?」
明確な答えなどないとわかりつつも「キウイ? サクランボ?」と再度訊けば、サクランボと言った瞬間カラスの目が輝いた。たぶん。
ゆっくりとすぐ側まで近付いてしゃがみ込み、パックから取り出したサクランボをカラスの目の前にぶら下げる。すると、嘴でくわえて器用に実だけをもいだ。残った軸を指先でくるくると弄びながら、カラスがサクランボを食べる様子を興味本位に観察する。カラスは器用に嘴の中でその実を食べ、口から種だけを吐き出した。
鳥って種を吐き出すものなの?
まるで人と同じ食べ方をするそのカラスに首を傾げながら、何かで鴉は賢い上に器用だと言っていたような……曖昧な記憶を思い浮かべていると、物欲しそうな目でじっと見上げられる。仕方なくもう一粒与える。
鴉が物欲しそうな目なんてする?
疑心暗鬼になりつつも、それ以外に喩えようのない感情のこもった目だった。カラスはやはり実だけをもぎ取り、口に含んで器用に食べている。嘴で突いたりはしない。前回と同じように種を吐き出したところで、カラスをそっと両手で持ち上げて道の端まで運び、催促される前にもう一粒サクランボを与え、食べている間にその場を立ち去った。これ以上は情が移る。
私が一人暮らしをしているアパートは、駅から徒歩三分という好立地だ。さらに大家さんが一階に住んでいるおかげで低セキュリティながら安心なうえに家賃もお手頃な好物件。
ただし、築十年以上の新しくもなければ古すぎもしない微妙なくたびれた感はご愛敬。各駅停車しか停まらない駅のせいか、そこそこ静かなのも気に入っている。
ダイヤルロック式のポストを確認し、郵便物とゴミにしかならないチラシを取り出す。ゆっくりと階段を上る。足の疲れを一層意識する。ふくらはぎとかかとが重い。
鉄骨造三階建ての三階、一番奥の角部屋が私の住処だ。
ドアを開けようとドアハンドルの上下に付いている鍵穴に鍵を挿し込み、ドアを開けようとして足元にある黒に気付いた。
「あれ? ついて来ちゃったの?」
答えるように「かぁ」と鳴く。本当にこのわざとらしい鳴き方はなんなのか。鴉ってこうやって鳴くでしょ、とでも言いたげな、鳴き声を真似たかのような鳴き方。鴉特有のふてぶてしい鳴き方とも違う。わざとらしいとしか言いようがない。
「家に入るなら、足洗って欲しいんだけどなぁ」
返事のように「かぁ」と鳴く。わかっているのかいないのか。
よく見ればそのカラスは妙に小綺麗だった。羽はまるで手入れでもされていたかのように艶々で黒々している。濡れ羽色とは斯くあるべきを体現しているような、しっとりと艶めいた漆黒。
もしかして飼い鴉? だからこんなに人に慣れてる?
かちゃりと小さく音を立ててゆっくりドアを開けると、開ききっていないドアの隙間から黒が素早く玄関に駆け込んだ。
「ストップ! 足拭くまでそこで待ってて」
カラスは聞き分けたかのように三和土の上で大人しく待っている。言葉が通じているかのようなカラスの行動に驚きつつ、急いで濡れタオルを用意してその足元に置いてやれば、自ら足をタオルに擦りつけてしっかりと汚れを落としている。
よく鴉は賢いと聞くがこれほどなのかと訝しむ。まあ、飼い鴉なら躾けられていてもおかしくない。ついでに体を軽く拭いてやると、嫌がるわけでもなくじっとしていた。本当によく躾けられている。
これだけ賢いなら、お腹いっぱい食べれば飼い主のところに自力で帰れるだろう。
「鴉って雑食だっけ?」
思わず呟けば、答えるかのように「かぁ」と足元にいるカラスが鳴いた。
ワンルームの小さなキッチンで、買ってきた袋入りのお一人様サラダを洗い、器にもっさり盛る。
ようやく一段落した仕事の後始末も終わり、本当に数ヶ月ぶりに、その単位は年単位かもしれないほど久しぶりに、定時に会社を出て帰路に就いた。入社して二年目、まだ仕事を完全に任されることはなくとも、任されないからこその雑用は多い。
こんな日に限って一緒に飲める友人は誰もつかまらない。まあ、金曜の夜に急に飲みに行こうと誘ったところでつかまるわけもない。
まだ明るい帰り道、まだ開いているスーパー、そんなことに感動しながら、お総菜やおつまみ、お酒を買い込み、ついでとばかりに週末分の食材も買い込んだ。この週末はひたすら寝たい。とはいえ溜まっている洗濯や、部屋の掃除もしなければならない。寝に帰るだけだったおかげでゴミがほとんど出てないのが救いだ。
いくつかのお総菜をレンジで温め、その間にカラス用にサクランボを洗い、キウイフルーツの皮を剥く。
キウイって食べられるのかな。
ふと思い立ってネットで調べる。キウイは平気だがサクランボは与えすぎないよう注意書きがあった。
テレビの電源を入れ、ワンルームの小さなラグの上にある小さなテーブルにそれらを並べていく。冷蔵庫から缶カクテルを取り出して、「お疲れ!」と自らに声をかけると、テーブルの上を覗こうとしていたカラスから「かぁ」と返事がもらえた。ちょっと嬉しい。
サラダとキウイを小皿に取り、カラスの前に置いてやる。
ラグに座り込み、プルトップをプシュッと開けると、その音にカラスが反応した。
「お酒はダメだと思うよ」
項垂れる鴉なんて見たことがない。
もうこの辺りから、このカラスは人の言葉なのか、感情なのか、意思なのか、とにかくこちらの言っていることを理解していると、頭の隅で思い始めていた。
まずはサラダをもしゃもしゃと食べ、次に熱々の揚げ出し豆腐を食べていると、カラスの視線を感じた。見れば既に小皿は空だ。
塩分は大丈夫なのかと暫し考えた末、このカラスなら自分で判断できるのではないかと、お行儀悪く揚げ出し豆腐を箸先で示し、「食べる?」と訊けば、それはもう嬉しそうに「かぁ」と鳴いた。
揚げ出し豆腐を小さく分けて小皿に乗せると、カラスは待ってましたとばかりに食らいついた。まるで「はふはふ」という表現がぴったりな食べ方をする。嘴で咥えては熱かったのか離し、再び咥えては離すを繰り返しながら、目を細め、それはもうおいしそうに食べている。面白くなってもうひと口小皿に入れてやると、これまたはふはふと食べる。
「肉じゃがも食べる?」と訊けば「かぁ」と答える。
なにこのカラス、面白い。
元々このカラスが賢いのか、ここまで躾けた人が素晴らしいのか、簡単な意思の疎通ができるなんて面白すぎる。
小皿に肉じゃがを装ってやると、これまたはふはふとおいしそうにジャガイモを頬張る。どこか親父臭く見えるのがなんとも面白い。
調子に乗って缶カクテルを指差し「飲む?」と訊けば、羽をバサッと広げ、元気よく「かぁ」と鳴いた。狭いキッチンにお猪口を取りに行き、ウォッカベースのグレープフルーツ味の缶カクテル、ソルティドッグもどきを注ぎ、テーブルの上にとんと置けば、カラスがテーブルの端にぴょいと飛び乗って、お猪口に嘴の先をつっこみ、ぴちぴち音を立てながら勢いよく飲み始めた。
「なに? いける口?」
軽口をたたけば、顔を上げて頷くカラス。
「こんなことなら日本酒買ってくるんだった。一人酒は好きじゃないんだよね、私」
日本酒と聞いて目を輝かせたカラスも大概だが、普通にカラスに話し掛けている私も私だ。
「あー、それにしても疲れたぁ。これっぽっちで酔っ払っちゃうくらい疲れた。もう今日はお風呂入って寝よう」
一人暮らしを始めてからというもの、どうしてか独り言が多くなった。ましてや今日は答えてくれるカラスがいる。そうしろそうしろ、とでも言うように「かぁかぁ」と小さく鳴かれた。
テーブルの上のお総菜を残さず全てお腹の中に入れる。カラスも張り切って手伝ってくれた。
「あー、そうだ。トイレはどうしよう、カラス、トイレどうする?」
窓を嘴でつんつんと突くから、少し開けてやればバサッと翼を広げて飛び立ってしまった。
「あーぁ、行っちゃった」
寂しさを断ち切るようにぴしゃりと窓を閉め、お風呂を洗ってお湯を溜めている間に空いたお皿の後片付けをしていると、こつこつと窓から音が聞こえた。何事かと確かめに行けば、カラスが当たり前のように戻ってきていた。
「まさか、トイレに行ってたの?」
急いで窓を開けカラスを家の中に入れてやると、「かぁ」と答える。どれだけ賢いのか、このカラスは。
戻ってきたカラスが嬉しくて、すっかり情が移っていることも加味されて、妙なテンションで笑い転げた。
ひとしきり笑い転げ、ふとお風呂にお湯を溜めていたことを思い出し、慌てて向かえばあと少しで溢れるところだった。
ワンルームとはいえ、お風呂とトイレと洗濯機置き場がぎゅっと詰め込まれた場所には、半畳ながらも脱衣所としても使えるスペースがある。
ぱぱっと服を脱いでお風呂の扉を開けると、またもや足元をすり抜ける黒い影。
見れば、備え付けの洗面器の縁に何食わぬ顔でちょこんと留まっているカラスがいた。
「まさかお風呂にも入るの?」
「かぁ」
もうこのカラスに関しては深く考えない。考えたら負けな気がする。
ざっとシャワーで体を流し、洗面器の栓を閉め、そこにお湯を入れてやると、カラスが水浴びならぬお湯浴びを始めた。烏の行水という言葉があるくらいだ、お湯に浸かるカラスもいるのだろう。
お湯に浸かりながらそんなことを考えていたら、お湯浴びを終えたらしきカラスが器用に足で洗面器の栓を抜いた。排水口にお湯が吸い込まれていく音をバックに、ふとカラスが身構えたかと思ったら、勢いよく湯船の中にダイブしてきた。
「ちょっと、静かに入ってよ!」
顔にかかったお湯を手で拭いながら見れば、羽を中途半端に広げ仰向けにぷかりと浮かんでいるカラスが「かぁぁ」と間延びした声が響いた。時々羽を閉じてくるっと俯せになり、再びくるっと仰向けになって羽をゆるりと広げる。小さく嘴を開けているあたり、気持ちよさそうだ。
髪や体を洗っている間、お風呂の縁からダイブして深く潜ったり、羽をばたばたさせたり、ほけらと漂うように浮かんだり、カラスなりにお風呂を楽しんでいた。
深く考えたら負け。
お風呂から出て体を拭き、カラスも拭いてやると、自分の髪を乾かした後、カラスにドライヤーを向けると、羽を広げてその内側までしっかりと乾かしていた。
寝る前に仕事がらみのメールチェックをしようとPCを起ち上げると、カラスがその前に陣取り、嘴でタイプした。
ブラウザの検索窓に文字が並ぶ。
【 せわになる。 】
ちなみにローマ字入力だった。
「あのさ、カラスってただの鴉?」
カツカツと軽快な音を立てながら紡ぎ出された文字は【 さんぜんだいせんせかいのからすのおさになりそこねたただのからす 】だった。
「さんぜんだいせんせかいって、三千世界のこと? あの『三千世界の鴉を殺して』って、ちょっ、痛いなもう。あの三千世界?」
鴉を殺して、あたりで手の甲を嘴で突かれた。ふてぶてしく頷くカラスが恨めしい。
「その鴉の長を決める戦いに敗れた負け鴉ってこと?」
負け鴉のあたりで今度は小指を嘴で挟まれた。戦いに負けた割に傷ひとつ見あたらない。
「戦いってどんな戦い?」
嫌そうにタイプするカラスの答えは【 でぃべーと 】だった。三千世界の鴉の長ともなるカラスは、どうやらインテリらしい。
軽くお酒も飲んで、お腹もくちくなり、お風呂にも入って、疲れ切った体はもう片足を夢の世界につっこんでいた。
カラスがディベートしてようとなんだろうと、正直どうでもよくなった。メールのチェックも明日にしよう。もはやつぶやく気力もない。
よろっと立ち上がって部屋の明かりを消し、付けっぱなしだったテレビも消す。カラスがなにやら弄っているノートPCをパタンと閉じて、もそもそとベッドに潜り込む。カラスはどうやって寝るのか、と淡い疑問が湧いたものの、あのカラスなら好きなように寝るだろうとそのまま眠りに落ちた。
翌朝PCを開けると【 さんぜんせかいのからすをすべて、われははれむをつくりたい 】という、お馬鹿すぎる一文が検索窓に残されていた。
そのお馬鹿なカラスはどこかと探せば、しっかり布団に潜り込んで惰眠を貪っている。
鳥って早起きじゃないの? との疑問はこのカラスに限っては愚問かもしれない。
いくら疲れていたとはいえ、こんな得体の知れないカラスを招き入れるなんてどうかしている。どれほど頭を抱えようとも、移った情は消えてはくれない。
くかぁくかぁといびきをかいて寝ているカラス。とりあえず、まずはカラスをたたき起こすことにした。
これが私と「三千大千世界の鴉の長になりそこねたただのカラス」の邂逅。
posted on 19 October 2015
© iliilii