はてしなくもはかない恋物語
メメント


 春が来て大学生になり、先生の腕にぎゅっと抱きしめられることに満足する日々を繰り返した。
 同じ大学に親友も通っているために潜り込むことができなくなった先生は、あっさり無職になった。それなのに、何かで書かされる職業欄には「尾行調査員」としれっと書く。本気でやめてほしい。そんな職業はない。

 再び春が来て、先生が額に落としてくれるキスにときめき、欲張りになろうとする心をいさめる日々が続いた。
 足掻こうとして足掻ききれず、時々先生に八つ当たりしながら、その八つ当たりすら嬉しがられ、その傍らで存分に幸せを感じさせてもらった。どれほど怒っても、どれほど文句をぶつけても、どれほどのわがままも、全部「かわいい」の一言でとがった心を丸め込まれる。

 また春が来て、頬に触れる唇に熱を覚え、日々せつなさを募らせるようになった。
 相棒もろともみんなで旅行にも行った。飲み慣れないお酒を飲んで笑えるような失敗も何度かした。
 季節の移り変わりを楽しみ、景色の美しさに胸を打たれ、時には二人っきりでデートをして、たくさんのきらきらしたものを心に焼き付けた。
 両親に甘え、親友たちと戯れ、相棒とともに歩み、たくさんの色鮮やかな思い出を心に詰めていった。

 そして巡ってきた学生でいられる最後の春、触れるだけのキスを唇にもらい、その先への期待と不安で胸が張り裂けそうになる日々が終わりを迎えようとしている。

 最後の一年のカウントダウンが始まる。
 春に生まれた私は、生まれたその日を終わりと定めていた。



 私たちは最後の一年、先生の家で同棲を始めた。両親も相棒もそれまで同様、同じマンションのすぐ隣にいる。先生が勝手に空間を歪めて壁に穴を空けたおかげで、相棒は自由に行き来している。魔術は鉄筋コンクリートなんてものともしなかった。

 かつての私たちのように、たった一年だけの蜜月。
「私はね、君のいない世界で生きるのはもう嫌なんだ」
 そうせつなそうに顔を歪めていたかつての夫に、ようやく私の全てを捧げる。

「君は始めから私のものなんだ」
 私にとっては当たり前のことを、はにかみながらもどこか誇らしげに口にする。それなのにその瞳はほんの少し不安そうに揺れていて、気付けばその唇を塞いでいた。触れるだけのキスが次第に深みを増していく。
 その指は私の全てのパーツをひとつひとつ確かめ、その唇は私を構成する全てに印を落とし、私の内側にある誰も知らない秘密を暴き、焼け爛れそうなほどの熱を与え、何もかもを満たしていく。その吐息に、その鼓動に、その律動に、私の全てが共鳴する。

 ずっと一緒にいた。片時も離れなかった。
 私にできるあらゆることをした。先生は私が望むまでもなくあらゆることをしてくれる。それにどれだけ応えられているか、正直わからない。けれど嬉しそうに笑う先生を見ていると、それなりに応えることができていると思いたい。

 とろりと滴る蜜の中に沈められた小さな檻の中、身体の奥底に閉じ込めた背徳に微笑み、体中が熱に爛れていくような、何もかもを互いに刻みつけるような、そんな毎日。
 ゆっくりと確実に積み重ねているようで、あっという間に過ぎ去っていく幻のような日々。

「何もいらないんだよ。君さえいれば」
 ことあるごとにそう囁いていた、その言葉の意味がわかったのはカウントダウンが残りわずかになった頃。
 残りの日々が片手で足りるようになってしまったその日、私は真実を知った。



 ここ数日、先生は残していく私の両親のためにせっせと錬金をしている。私が二十歳の時に父は定年を迎えた。
 先生が錬金部屋に籠もっているうちに、私はみんなに残す手紙を書いている。

 これが最後と心に決めて会った親友たちの別れ際の言葉は、「私たちのこと、忘れないで」だった。何も知らないはずなのに、泣きそうなほど歪んだ笑顔で「ありがとう」と抱きしめられた。
 最初に私たちのことに気付いたのは、繊細ゆえによく気が付く元副担任だったらしい。先生と仲がよかったのだからそれも必然だろう。最初に時を越えた時の彼女たちの記憶は残ったままだ。
 彼女たちに残す言葉は、私たちの真実。私も忘れないでほしいとわがままに願う。

 魂で結ばれている相棒はもちろんのこと、両親も全てを悟り、とっくに覚悟していた。「生まれた時から覚悟していた」と笑う、その深すぎる愛情に何も言えなかった。
 母は私を身籠もった瞬間にそれまでのキャリアを捨てている。彼女の全ての時間を私に注いでくれた。父は出世よりも私と過ごす時間を優先し、学校行事などの全てのイベントに参加してくれ、夕食は常に家族揃ってだった。
 大切に大切に育ててもらった。だからこそ先生は金を両親に渡し、両親も遠慮せず受け取っていた。全ては私のため。
 先生だけじゃなく、両親がいて相棒がいてくれたから、私は強く生きられた。

 イレギュラーな存在である私たちは、おそらく彼らの記憶には留まれない。思い出になるよりもずっと早く儚く消えてしまうだろう。それでも、たったひとつの小さな細胞だけでも覚えていてほしいと(こいねが)う。

「エノク語?」
 変換した漢字が合っているのかを確かめるために検索した、その傍らに見付けた文字。妙にひっかった言葉。聞いたことのない言語。
 嫌な予感に胸が騒ぐ。恐る恐るその言葉にカーソルを合わせ、吸い込んだ息を吐き出すこともできないまま、指先が躊躇するそのリンクをタップした。

 震える指先。そのせいで何度も打ち間違うキー。それでも、次々と調べてわかった事実。
 以前調べた時とは何もかもが違っていた。

 ちょうどそこに今日の分の錬金が終わったのか、先生が顔を出した。どうかした? と首を傾げながら、ソファーに座る私の横に腰をおろし、膝の上にあるノートブックパソコンをのぞき込む。
 あと少しで命が尽きるというのに、先生はどんどん穏やかになっていく。まるで達観の果てにある微睡みの中で生きているように。

「先生、エノク語って何? これ誰? どういうこと?」
「ああ、それね。私はかつての全てを捨てたんだよ」
 なんでもないことのように静かに笑いながら言われた言葉は、耳を通過して頭の中に響いたはずなのに、何もわからなかった。わかりたくなかった。

「かわりに、得た、ものは?」
 声が震える。気を抜けば嗚咽が漏れそうだった。
 ずっと若い姿のままだったのは、本来の姿すら捨てたからなのか。

「もうわかっているだろう。君との来世だ」
「だって!」
「わかっている。君の願いの先を私は願ったんだ。私たちにも未来はちゃんとあるんだよ」
 ふわっと柔らかに笑った。かつて見たどんな笑顔よりも柔らかで穏やかな、慈しむような愛おしむような、そんな目をして。

 先生は、世紀の錬金術師であり大魔術師だ。
 あの時代の誰もが先生に傅いた。それこそ、時の権力者たちさえも。彼らは先生を取り込もうとあの手この手を使った。それほど先生の存在は偉大だった。私を殺し、その代わりに息のかかったお嬢さんを妻として送り込むほどに。

 それなのに、後世に残る記録は違う。私が知る最初から途中まですら、似ているようでいて間違いだらけのでたらめな内容。似ても似つかない肖像画。その名前すら違う。

「どうして名前まで」
「思い出せないだろう? 私の名前。私ももう、思い出せないんだ」
 静かに笑いながら語られた言葉通り、いくら頭の中を探しても慈しんだはずの音が見付からない。J──ジェイで始まることしか思い出せない。けれど決して記録されているものではない。私が知っていたはずの音はそれじゃない。魂が違和感を必死に訴える。
 かつても先生と呼んでいた。熱をぶつけ合う時と喧嘩した時は愛称のジェイと呼んでいた。覚えているのはそのふたつだけ。たったふたつだけ。

 それがキーだ。先生の名前。きっとそれが鍵。
 私の呪いのような願いを覆し、先生が願った来世をも覆し、ともにある未来はきっとその先にある。
 私がほしい未来は来世じゃない。たとえ先生が全てを引き替えにして手に入れた未来であっても、ほしいのは今だ。今を生きるこの先がほしい。私は私のまま、先生は先生のまま、そのままの未来がほしい。

 思い出せ!

 それから私は、残り少ない時間の中、必死に先生の名前を探した。かつての国に由来するJで始まる名前を全て調べた。けれどどれも違う。違和感を覚える音しか見付からない。

 限りある命が確実に減っていく。
 かつてのおぼろげな記憶を何度も呼び覚ます。どこかで呼んでいるはず。必ず一度は呼んだはず。
 けれど記憶はあまりにも遠く、不明瞭で要領を得ない。



 命の灯火があと少しで消える。けれど私は、思い出せないままだった。

 私を抱えてソファーに座る先生の顔は、ともに消える命を祝うかのような穏やかさだ。来世に望みを繋いだ先生に私は逆らう。来世より今世の未来がほしい。どうしてもほしい。今に続くこの先を、先生と一緒に生きたい。先生と一緒に老いて逝きたい。

 焦りから激しく脈打っていたはずの心臓が、次第にその速度を緩めていく。
 命の終わりが手を伸ばしてきた。

 先生が空けた穴から、相棒の慟哭のような遠吠えが聞こえてくる。きっと両親は泣いている。「最後は二人で過ごしなさい」と、泣き笑いの笑顔を見せた二人の姿が脳裏をよぎる。相棒の触り心地を指の間が思い出す。ふんと鼻を鳴らす音が耳に蘇る。

 零れる涙を拭う指先に導かれるまま、その胸に頬を寄せる。変わらない先生の匂い。この先もこの匂いに包まれていたい。

 どうして名前まで失った? 
 天使の言葉を返したと聞いた。だから、先生の経歴が間違ったものに変わった。
 返上した天使の言葉はその外殻しか残らなかった。それはその外殻であっても正しく使えば力を発揮する強すぎる言葉。
 どうして喧嘩した時にまで愛称で呼んでいた?
 愛称で呼ばなければならなかったから?
 天使の言葉……それを返した……?
 そうだ、先生は天使の言葉を授かった時に天使の言葉で名を賜っている。

 指先の感覚が薄れ始める。もう何もかもが終わってしまう。

 先生は名前をふたつ持っていた。そう、確かに彼の祖父が名付けたのは記録されているものと同じだったような気がする。けれど魂に刻まれた、私が知る本当の名前は──。

 顔を上げ、相変わらず長い前髪を感覚をなくした指先でそっと払う。はっきりと現れた目を見て、確かめるように静かに言葉を紡ぐ。かつての夫の真名を捧ぐ。天使の言葉で描かれるはずの、あなただけの特別な音。忘れ得ぬ福音。

 ──────。










 気が付けば森の中にいた。かつて夫と出逢った森。
 木漏れ日が躍る中、葉擦れが囁く中、そよ風が頬を撫でていく中、夫と二人、向かい合うようにただ立ち尽くしていた。

 失った。
 何もかも失った。
 願いを覆そうとした罰なのか。それともこれは祝福なのか。

 突然、目の前に立つ夫がさもおかしそうに声を上げて笑い出した。
「ただの男になったのか。君は、ただの女になった」
 何が楽しいのか、ともすれば狂ったかのようにお腹を抱えて夫は笑い続けている。
 どう償えばいいのかがわからない。まさか、私たちを形作るそのエレメントまで失うとは思わなかった。恐ろしほどの罪悪感に押し潰されそうになる。

「ごめんなさ──」
「何を謝る。私が欲しくて欲しくてたまらなかった未来だ。私はただの男で、君はただの女で、何にも縛られずに生きてみたかった。ずっとずっと、夢見ていた」
 頬を包む手のひらのあたたかさに、覗き込まれたその目の奥にある歓喜に、愛おしそうに抱きしめられたその腕に込められた熱に、後悔や罪悪感が薄れていく。
 私を形作るたったひとつだけ残されたエレメント。そう。それさえあればいい。
 それに応えるかのように、目の前の愛おしい人が無垢な笑みを浮かべてゆっくりと頷いた。重なる唇に想いを重ねる。

 ああ──記憶の欠片が零れ落ちていく。全てが消える。生まれ変わってしまう。

「忘れてもいいから憶えておいて。私はどんなときでも君だけがほしい。君さえいれば何もいらないんだ」
 
 憶えていられないかもしれない。けれど決して忘れない。
 心に刻んだ想いは、きっと魂にも刻まれる。
 目の前にいる愛おしい人をその目に焼き付ける。魂に焼き付ける。きっと、忘れない。










 ふと気付けば、森の中にいた。
 すぐ目の前には知らない男の人。つい今し方まで親しく話していたような気がするのにその記憶がない。知らない人なのに近しい距離にいて違和感を覚えない。それなのに、まるで見覚えのない少し年上の男の人。
 目の前で訝しむようにわずかに顔をしかめている。

「すまないが、ここがどこだかわかるかい?」
「いえ、今私も同じことを尋ねようかと……」

 知っているようで知らない森の中。既視感を覚える木漏れ日、妙に耳に馴染む木々のざわめき、吸い込む土や草の匂いに違和感を覚えず、頬を撫でていく風の感触すら知っているような気がして仕方がない。

 知らないはずの人なのに、どうしてか胸がしめつけられる。恋しさを覚える。そう、恋しさ。これが一目惚れというものだろうか。どうしてか目が離せない。離したくない。そばにいたい。触れたい。その声をずっと聴いていたい。全ての感覚が目の前の人をとらえてはなさない。
 瞼の裏にある何かの形がそっくりそのまま重なって見える。とても大切な、何かはわからない何か──。

 記憶が混沌としている。自分の存在すらあやふやで、ただ目の前にいる人の存在だけが揺るがない。

「私は……私の名前……」
 どうやら目の前の男の人も同じようだ。どうしてか自分と同じだとわかる。
 不意に浮かんだ音。それはまるで福音のようで、どうしようもなく心が震える。

「もしかしてあなたは、────?」
「君は私を知っているのか? そうだ、君は、君は────じゃないか?」

 己の名前すら記憶のどこを探してもないのに、閃光のように頭に浮かんだ音が目の前の人のものだと知っている。そして目の前で紡がれた音が自分のものだとわかる。

 終わりと始まりの予感がする。
 果てしないほどの時を彷徨ったかのような、そんな途方もない気持ちになる。
 いつの間にか失ってしまった何かを偲ぶかのように、わけもなく涙が零れ落ちる。

「よくわからない状況なのだが、どうだろう、私と一緒に始めないか? きっと私は、君さえいればいいような気がするんだ」
 照れくさそうに笑う目の前の人を見ているだけで、胸がしめつけられるほどの恋しさが、驚くほど急速に募っていく。
「ええ。私も。どうしてでしょう、あなたさえいればいい……」
 そっと涙を拭うように、知らないはずの指先が懐かしい温度で頬に触れた。

 どうしようもなく心が震えるのは、わけもなく涙が溢れるのは、もしかしたら儚い記憶のフラグメント──。











 ふと聞こえてきたかすかな遠吠え。心のどこかが瞬いた。魂がここにいると叫びを上げる。
 目の前の人がほんの少しだけ嫌そうに顔をしかめた。それにどうしようもなく幸せを感じた。