はてしなくもはかない恋物語
花束「大好きです! 結婚してください!」
そう叫んだ瞬間、黒目がちな目を零れ落ちそうなほど見開き、つややかな唇をわななかせ、元々赤かった顔を更に真っ赤に染め、いきなりくるっと回れ右をしたと思ったら、がたがたと音を立てて机にぶつかりながら、彼女はその場から一目散に逃げ出した。
同じように目を丸くして、口をぱくつかせ、顔を赤くした言葉の先にいる相手を置き去りにして。
「大丈夫かな? 変じゃない?」
さっきからずっと携帯電話を鏡代わりに髪型をチェックしている親友は、卒業式の今日、いつもより気合いが入っている。何度かわいいと言ったところで、彼女はきっと納得しない。告白直前は自分の全てに不安要素を見付け出してしまうだろう。
「このおでこのニキビ、目立つ?」
不安そうな彼女が前髪をあげると、隠れていた小さなニキビがぽつっと赤らんだ顔を見せた。
「前髪に隠れてるから目立たないよ。そんなに大きくないし」
「昨日緊張しすぎて寝れなくて。目の下のクマ、隠せてる? お母さんのコンシーラー借りたんだけど……」
「大丈夫隠せてる。不安なら式の間寝てれば? きっと気にならなくなるよ」
「そうする」
もうひとりの親友の言葉に、ぷるんと艶めいた唇を軽くとがらせて、せわしなく前髪でニキビを隠している恋する乙女。今日は彼女の一世一代の好機だ。このチャンスを活かせないと後々キツイものがある。
「できれば結婚までこぎつけたいんだよね?」
念のために確認すれば、携帯電話に落ちていた視線が勢いよく上がった。
「うん。私も早く結婚したい!」
「だったら、是が非でも今日しっかり気持ちを伝えて。それさえちゃんとできてればあとはなんとかなるから」
「わかった」
ぐっと目に決意を宿した彼女を、結婚を控えた親友が「がんばれ!」と応援している。目の前で幸せに満ちあふれた笑顔を見せる彼女を間近にしていれば、早く結婚したくなるというものだ。
式の間中そわそわして、居眠りするどころじゃなかった彼女は、卒業式の後の人気のない教室で、親友に呼び出してもらった想い人に無事気持ちを伝えた。ちょっとセリフを間違えたけれど。
教室の前のドアを勢いよく開けて飛び出していった彼女の背中を見つめながら、教室の後ろのドアを少しだけ開けて一緒に様子を窺っていた親友と顔を見合わせ小さく吹き出す。
「本当は、付き合ってください、だよね」
「あれ、朝の会話に惑わされたよね」
「どうする? 追いかける? きっといつものところだよね?」
「しばらくそっとしておいた方がよくない?」
「そうかも」
こそこそとやりとりしていると、突然目の前のスライドドアが大きな音を立てて開いた。びっくりして揃って飛び上がる。
「お前たち……」
視界を埋める大きな身体を見上げると、副担任の渋顔が笑ってしまうほど真っ赤で、思いっきり吹き出してしまう。
「先生、顔真っ赤」
親友の容赦のない一言に笑いをなんとか堪えようとして失敗しながら、大いに頷く。
「あれ、卒業記念の冗談じゃないんだろう?」
「殴りますよ」
「蹴りますよ」
わかってる、念のため確認しただけだ、そう言って狼狽える副担任、ではなく、もう卒業したから元副担任は、顔を赤くしたまま宙を見上げて短く呻った。
「あいつには言うなよ」
「言いませんよ。聞かれない限り」
親友よ、それは言うと言っているも同然じゃ……。見れば顔を赤くしたままの「あいつ」の親友も呆れた顔をしている。彼女の婚約者である「あいつ」は、目の前の元副担任の親友だ。
「ちゃんと真剣に応えてくださいね」
睨みつけるような親友の目に、元副担任は真面目な顔で頷く。
元副担任の気持ちなんて聞かなくてもわかるけれど、根が真面目な彼女の想い人は、教師という職業ゆえにどう出てくるかがわからない。
けれど、ここで想いを伝えておくことが重要。元副担任の覚悟が一番はっきりするのが、この卒業式だ。
ここで想いを伝えないと、この優しくて気弱な男は自分の想いを封印して、この先彼女を一卒業生としてしか扱わなくなる。想いがこじれてこじれてこじれまくった末にようやく実を結ぶのは、再び同じ干支が巡ってくる頃。
「十二年なんて待てるわけない!」
初めて占った時に見えた未来に、彼女はそう力強く宣言して抗うことを決めた。その変遷の好機が今日。そして今、確実に変遷された。彼女の想い人の目に決意が見える。それはきっと、最善へと繋がっているはず。
本当は私のわがままも少しある。私がいる間なら、なんとか予測できる未来を変遷させる手伝いができる。けれどいなくなってしまったら……彼女たちは自分の命運など知らず、翻弄されるしかない。
小さな幸せでいい。どこかに私の痕跡を残したかった。私が成した印を彼女たちに刻みたかった。いずれその記憶すら消えてしまうだろう私の存在を。
「すぐにというわけにはいきませんが、この先君が大学を卒業し、社会を経験し、それでも変わらず私を選んでくれるなら、どうかそのときは結婚してください。結婚を前提に、私とお付き合いしてください」
初夏を思わせる目を眇めるほどの強い陽射しの中、つい先ほどまで花嫁の手にあったブーケを差し出し、物語に登場する騎士のように芝に膝をつき、濃い緑に埋もれる庭の片隅で、彼女に想いを告げた元副担任。
彼女は嬉しさと感動と動揺を滲ませながら、恐る恐るといったふうにブーケに手を伸ばし、大きな目から零れる涙は光を受けてきらきらと輝いていた。
幸せの花束を胸に抱き、何度も頷きながら必死に笑おうとする彼女を見つめる副担任の目がこのうえなく優しい。
「なんだか……主役奪われてる?」
「今日は俺たちの結婚式なのになぁ」
親友の結婚式に呼ばれた全員が、影に隠れてその様子を鑑賞している。それこそ、元副担任が式の直後に彼女を式場の庭に連れ出す瞬間から、互いに顔を見合わせ、にやにやしながらこっそり後をつけてきた。本人たちはそれどころじゃないのか、少なくはない人数が素知らぬ顔で後をつけていることに気付きもしない。
本日の主役である親友が、本当に親しい人たちだけを招いて行われた未来を結びあう儀式。
緑に囲まれた結婚式場の中にあるクリスタルの教会は、全面ガラス張りではないものの、効果的にスリットが設けられ、そこから入り込む木漏れ日が、青い空と木々の緑を際立たせている。
ドーム型の天井に設けられたステンドグラスからは淡く色を纏った光が落とされ、真っ白な大理石のフロアにカレイドスコープのように光の文様を映し出す。
淡い水色のシンプルなドレスのような膝丈のワンピースにクラシカルなベールを纏った本日の主役は、美しい光の中であっても眩しかった。その日の全ての幸福を全身に集め、穏やかで晴れがましい笑顔を魅せている。
自らの力で大きく命運を変遷させた彼女は、本当に美しく、誇らしかった。
人前結婚式。彼らは未来への決意を親しい人たちに誓う。
その進行役を直前になって知らされた元副担任は、思いっきり挙動不審になりながらも、なんとか滞りなくその儀式を終えた。さすが教師、いざ壇上に立つと強い。若干授業っぽかったのもほほえましかった。
彼の親友であり新郎は、それを見越していたかのようなしたり顔で、彼らの信頼と仲の良さが垣間見えた。
そんな彼女が、滞りなく式を終えた直後、焚き付けるかのように手にしていたブーケを元副担任に押しつけた。
白を中心に青がちりばめられた、幸福の意味が込められた花束。
意表を突かれたかのように目を見開いた元副担任は、次の瞬間には表情を引き締め、自分に想いを伝えていた彼女に足早に歩み寄り、無言でその手を取ってあっという間に会場から消えた。
卒業式以降、恋する乙女は恋を諦めた乙女に変わりかけていた。いくら二人で慰めても慰めきれないほどの落ち込みっぷりに、いつまで返事を待たせるのかと、怒りを募らせているのは現在進行形だ。
ただ、白衣の数学教師から聞くところによると、元副担任は各所に根回しをしていたらしい。「誰に対しても堂々と彼女だと言えるようにしたいんだ」と、妙に真面目な顔で相談されたらしい。
さすがにそれを私から彼女に知らせるのは違うだろうと思い、むずむずする口を必死に噤んでいた。
「行くぞ!」
新郎の興奮を抑えるような低い声に誘われ、本日の参列者全員がこそこそ後をつけ、緑に囲まれた庭での告白現場を押さえた。すばらしい。新郎の父が携帯電話で抜かりなく録画までしている。あとで見せてほしい。
その後の披露宴代わりの食事会で、主役とともに盛大に祝われている彼女たちを、心静かに眺めていた。
未来に向かって輝く彼らは、それぞれに美しい。命運を変遷させた彼女たちは、力強くその命を輝かせている。その二人に寄り添う彼らも、愛しいものの命運に自らの命運を絡め、その輝きを日々増していくことだろう。
その輝きに照らされ、ともに心から祝っている周りの人たちも、その輝きを強めている。
幸福の連鎖。
美しかった。きれいだった。
命が、未来が、輝いていた。
もっと足掻いてみようと決意するほどの輝きは、濁り澱みがちな私の心を澄んだものへと変えていく。
隣に恋しい人がいないことが不思議なくらい、その存在を傍らに強く感じた。
彼女たちのがんばりの後ろにあった己の存在までもが、彼女たちの輝きに照らされて煌めいているような、そんな気がした。