はてしなくもはかない恋物語
桃のゼリー「君は! 一体何をやっているんだ!」
珍しく厳しい口調。
しかめっ面をぐいっと近付けつつ、額に手のひらを押し当ててきた先生は、わざとらしいほど大きなため息をひとつ吐き出した。額に置かれた手がひんやりと気持ちいい。
「いいか、この時代に魔女はいないことになっている。たとえ命運を見たとしても、見て見ぬふりをしてもいいはずだ。魔女の掟など、この時代にはナンセンスなんだよ」
大好きなゼリーがのったスプーンを、ふるふると揺らしながら口元に軽くあてられる。気怠さを押しのけて小さく口を開けると、すかさずスプーンが押し込まれた。んー…幸せ。
「いくら仲がいいとはいえ、それが彼女の命運なのだから放っておけばいい。だいたい君はカニングウーマンであってウィッチじゃないだろう」
これにはむっとした。彼女は私にとってかけがえのない存在だ。うっかり魔女だと知られてしまったというのに、変わらず友達でいてくれる。まあ、冗談だと思われたのかもしれないけれど。それでもバカにされることも、否定されることもなかった。
だいたい、今時カニングクラフトとウィッチクラフトの違いなんて、知っている人の方が少ない。どっちも魔女だ。
「まったく。あれは君には高度すぎる。おまけに代償まで払って……君はもっと自分を大切にすべきだ」
代償といっても、少しばかり生命力が奪われただけだ。命を奪われたわけではない。これで変遷してくれればいいのだけれど。
「このくらい、などと思っているんじゃないだろうな。このくらいで二週間も寝込まれたらたまらないだろう。私は元気な君の後をつきまとうのが好きなのであって、病気の君の看病をするのが……まあこれも悪くはない……って、あ、ちがっ……だから、私は断じてストーカーじゃないから! 元気な君の後を陰ながら観察するのが好きなだけで、ストーカーじゃないからね」
断じてストーカーだと思う。無駄に言い繕う数学教師の話はどうでもいいから、もうひと口ゼリーがほしい。先生は昔からひとつのことしかできない。
小さく口を開けてアピールする。喉が痛いから声を出したくない。口を大きく開けたくもない。
「かわいい」
でれっと鼻の下を伸ばしただらしない顔は、四百年の恋も冷めそうだ。いいから、ゼリー。もう少し口を開けてアピール。
「かわいい」
もう一度同じ言葉が繰り返された。うん、どれほど好きでいてくれるかは知っている。にやけそうだから早くゼリー。いいからゼリー。口を開け続けているせいで喉がひりひりしてきた。
「子供の頃からこうして君にゼリーを食べさせてきたんだ。君は熱が出ると決まって冷やした桃のゼリーを食べたがる」
わかっているならもうひと口おくれよ。口を開け閉めするだけで体力が奪われる。
「そして潤んだ瞳で私を見上げて、儚げに笑うんだ。そのたびに私は……」
言葉をつまらせた先生は、私が熱を出すたびに同じことを涙ながらに訴えてくる。
子供の頃は、幼心にそんなに私を想ってくれているのかと感動したものだ。が、こう毎度毎度だとさすがに聞き飽きた。しかもだ。これ、たぶん口先だけ。実は看病することを心底喜んでいるのがひしひしと伝わってくる。正直どうなのかと思う。
「私は君さえいれば何もいらないんだ」
決まり文句のように、ことあるごとにそう言って壊れそうに笑う。けれど今日に限っては、目尻を下げたそれはもう嬉しそうな顔。どうかと思う。
「あーん」
デレた声と一緒に、幸せをのせたスプーンが運ばれてきた。やっとだ。口に入れられたつるんと冷えた至福の塊。
「君は、私の愛の囁きよりも、桃のゼリーを口に入れた時の方が嬉しそうだね」
それはそうだ。なにせこの桃のゼリー、高級果物店のプレミアムジェリーだ。ゼリーじゃなくジェリーだなんて、それだけで高級っぽい。熱を出した時に先生が買ってきてくれないとお目にかかれない逸品だ。対して先生は、熱を出さずとも振り向けばいつもいる。
「ともかく。君は現代では普通の女子高生なのだから、命運など放っておきなさい」
気を取り直したように厳しい言葉をぶつけてきた先生は、私の桃のゼリーを大きな口でこれ見よがしにばくっと食べた。私のふた口分よりも大きなひと口。思わずむっとして目を細める。
「かわいい」
かわいいじゃない!
「ゼリーの合間にこれを」
いやだ。先生の薬はものすごく苦いうえにものすごくえぐみが強く、何より、ものすごく身体が臭くなる。絶対に飲みたくない。現代の飲みやすい小粒な薬で十分だ。
「大丈夫。今度はちゃんとイチゴ味だから」
前回もそう言われて飲んでみたら、三日ほど人前に出られないほどの異臭を体中から放つ羽目になった。先生はそれをデトックスと言う。絶対にデトックスの意味を間違えている。
だいたい先生は錬金術師であって薬師ではない。見よう見まねで怪しい薬を作るのはやめてほしい。無駄に器用でそれなりのものができてしまう分、余計にタチが悪い。
「桃味の方がよかった?」
だから、味の問題じゃない。飲んだら最後、自分が臭くて死にそうになる。臭い臭いと文句を言いつつ匂いを嗅ぎに来る先生は、本当にどうかと思う。
「君は、スナック類を食べ過ぎなんだよ」
何かを察した先生の言葉に、目で言い訳を訴える。おいしいのだから仕方がない。どれほど身体に悪いかを口酸っぱく注意されたとしても、みんなで笑いながらつまむスナック菓子はやめられない。
「私が作ったお菓子をつまめばいいのに」
先生が作ったお菓子は、味はともかく見た目が悪すぎて食べる気がしない。なぜクッキーがリアルなイボ蛙の姿をしているのか。チョコレートが毒蜘蛛の姿なのか。かつての先生がイボ蛙を友達だと言い張り、毒蜘蛛は気のいいやつだと笑っていたとしても、意味がわからない。
先日は胃液味なるゼリーを作っていて、一体誰が口にするのか、なんのために作ったのかと本気で悩んだ。嫌がらせにしか思えない。
「とにかく、もう命運に手を出すんじゃない」
むうっと唇をとがらせてしまう。子供の頃からのくせは、子供の頃を知っている人の前だと無意識に出てしまう。小さく「かわいい」と呟く数学教師の頭の中は一体どうなっているのか。
「それにだ、戻って来た彼女の命運は変遷していなかった」
そんな……。
「だって先生が、十代の男の子は、それしか頭にないって、言ったんじゃない」
喉がひりひりする。声が老婆のようにしわがれている。
彼女は身籠もり、けれど生まれたばかりの小さな細胞は、魂が宿る前に人知れず失われ、その代わりに彼女の命が救われる。そうなる、はずだったのに……。
残酷な生命のやりとり。それを負うのが魔女という生きもの。だからこそ魔女は、自ら命を生みだすことができない。
「ああほら、しゃべるな。君の言いたいことはだいたいわかるから、しゃべるんじゃない」
慌てたように桃のゼリーが口の中に放り込まれる。かすかにイチゴの香りが鼻に抜けて、ゼリーに偽薬師の薬が混ぜられていることに気付いた。また三日間、鼻が曲がりそうになるのか……。すでに相棒が姿を消している時点で気付くべきだった。
「彼はそれほど彼女のことを大切に思っているのだろう。仕方がないから、消えるはずの彼らの記憶を残しておいた。これで出会いが早まるだろう」
大きく目を見開けば、仕方ないとばかりにため息が落とされる。
「今回だけだ」
さすが大魔術師。消えるはずの記憶を残すなんて、私にはできない。
彼女の中に、小さな毒の袋があることに気付いた。その袋は、ある日突然大きく膨らみ、体中に毒をまき散らし、彼女の命をあっという間に奪う。
まだ魔素のある時代ならば、その毒の袋をほかに移して彼女の命を救うことができた。けれど、この時代に魔素はない。代償となる命は、残り少ない私の分では到底足りない。彼女自身に変遷してもらうしかない。
「一年後、それが最後のチャンスだ。これで変遷できなければ諦めるんだ」
再び大きく目を見開く。ふいっと背けられたむすっとした顔。
「君は決して諦めないだろう? だったら、手を貸す方がマシだ」
思わず頷けば、いつもそうやって素直だといいのに、とその目を細めながらぼやかれた。
「いいか、彼女の相棒が身代わりを申し出ている。過去にさかのぼってその身を捧げてくれるそうだ」
あれだけ嫌がっていたのに、彼らの声を聞いたのか。私の相棒の声すら聞くのを嫌がるのに。
「私の、ため?」
「それ以外に何がある。私はね、君さえいればいいんだよ」
ごく当たり前のように返された言葉。
もう、いつ死んでもいい。
この人はいつだってそうだ。いつだって物事の真ん中に私を据え、私のために己の理を曲げてまで、その全てで応えてくれる。
四百年もの歳月を越えた想いに、たった一年でどれほど応えられるだろう。
「いいか、術は三つ、現在過去未来、その全てを一度に行う。君は、一年の間に術の精度を上げるんだ」
わかったと頷けば、いにしえの大魔術師の目が細められた。
「それで変遷されなければ、二度と彼女の命運には関われない。いいな」
顔をしかめながらおでこにもう一度手を当て、無駄に高い体温を奪ってくれた。
これが一年と数ヶ月ほど前の出来事。
そして今日、彼女の命運は変遷された。
その名の最初のひと文字を、愛おしく柔らかに伸ばして呼ばれていた彼女の相棒は、ほんの少し姿を変え、今もそれと同じ呼び名で彼の相棒となり、彼女のそばにいる。大魔術師の粋な計らいだ。その忠誠心に感動したとかなんとか。魂が失われ、命を終えようとしていた器に移し替えたらしい。
「移し身に耐えるほどの強い忠誠があればこそだ」
「先生かっこいい!」
その狼狽えぶりに再度惚れ直したのは内緒。