はてしなくもはかない恋物語
恋する乙女


「ねえねえ、今日もお願い」
 前の席に後ろを向いて座り、顔の前で両手をすり合わせて「いい?」と小首を傾げる彼女は恋する乙女だ。

「また? 結果はそうそう変わらないよ?」
「でも! もしかしたら早まってるかもしれないでしょ? バレンタインとかクリスマスとか、もしかしたらハロウィンとか!」
 必死に言い募りながらもどこかおっとりと聞こえる、女の子らしい少し高めの声。ね、お願い。そう片目を瞑って頼まれれば嫌とは言えない。
 相手の性格を考えるとそれはないだろうと思いながらも、常に持ち歩いている手製のカードを鞄から出し、目を瞑りふうーっとお腹の底からのひと呼吸で精神統一。目を開けて占い始める。

「見る度に言っちゃうけど、このカード、タロットじゃないんだよねぇ」
 その言葉通り、彼女たちは見る度にその図案を物珍しそうに眺めている。先生に教わった天使の言葉を図案化したカード。天使の言葉は図案化してパターンの中に隠してしまわないと、私には力が強すぎて扱うことができない。

「似てるけどね。これは私だけのカードだから」
 魔女は各自専用のカードを持つ。基本は現代のタロットカードに近いものだけれど、占うにも得手不得手の分野があるため、できるだけ得意分野の細かな情報が引き出せるようなカードを自作する。私が得意なのは先見。それで知った未来を少しだけ意図的に変遷させる。

 次々と繰り出されるカードを見つめる彼女の目はひどく真剣だ。

「ほらね。やっぱり同じ。告白は卒業式だよ」
 机の上に並ぶカードの上を彷徨っている視線。
「先は長いなぁ」
 諦めたように顔を上げた彼女の小さな口から、せつなげなため息が零れた。
「在学中はどう考えても無理だよ。卒業式が最初で最大のチャンスだから、そこは変えない方がいい」

 梅雨明けを間近に控え、じめっとした重みのある空気で満たされている放課後の教室はすでに人もまばらだ。
 恋を成就させたもうひとりの親友はすでに帰った。今日は彼の家に行く日だとにこやかに笑い、足取り軽く、幸福の気配を纏いながら。

「そうだよねぇ。卒業したってちょっと厳しいかもしれないよねぇ」
 恋する乙女が悩ましげに眉を寄せながら小さくため息をつく。

「それは大丈夫じゃない? 在学中じゃなければ。あーでも、まだ未成年だからどうなのかなぁ。十八過ぎてるし、卒業しちゃえば別にいいと思うんだけど、やっぱり世間体はまずいのかなぁ。最近色々うるさいし。あの二人みたいに婚約しちゃえばいいのかもしれないけど……いきなりそれもねぇ」
「婚約って! そもそも付き合えるかわかんないし……」
 一瞬にして顔を赤らめた彼女は、次の瞬間にはしょぼんと肩を落とした。
 それは大丈夫だろう。端から見ているとわかりやすいほど、彼女の想い人は彼女を目一杯意識している。無駄に白衣を着ている数学教師が聞き出した情報では、小柄でおっとりとしたかわいらしい女性が好きらしい。目の前にいる彼女はまさにそれだ。

「ダイエットしようかなぁ。もうちょっと痩せた方がいいかなぁ……」
「そのままがいいと思うけどなぁ。ほら、ふわっとした感じの女の子が好みだって言ってたでしょ?」
「そうだけど……それってそれっぽい雰囲気ってことじゃないの?」
「違うんじゃない? マシュマロみたいなって言ってたから、触り心地がいい感じかと思ってたけど」
「なんかそれって、いやらしいね」
 いやいや、いやらしく感じる要素はどこにもない。頬を染め「うー」っと悶えながら恥じらう必要もどこにもない。柔らかそうなほっぺたを指先でちょっと突いてみたいという、かなり残念な思考だ。猫背の数学教師とそれでかなり盛り上がったと聞いた。変態は変態を呼ぶのか?

「やっぱ同じ大学に行こう! あれのおかげでお父さんが私立でもいいって言ってくれたんだぁ」
 強い意志をこめるかのように、ぐっと握りこんだ拳を胸の前で作った。そのまさに女の子な仕草が本当によく似合っている。すごく真似してみたいけれど、残念なことに私にはたぶん似合わない。

 以前、彼女の周りに強烈に主張する数字が見えたのでそれを伝えたら、彼女の父親がたまたま会社の人との付き合いで行った競馬場で万馬券を手にした。親と仲がいい彼女は父親にもそれを話していたらしい。
 ただ、父親はそれが原因で転職することになり、占いの結果、今の会社に落ち着いた。彼女にとっては最善への変遷だったけれど、彼女の父親にとっては善かったのか悪かったのかはわからない。彼女から見て今の父親の方が帰宅も早いし、余裕があるように感じるらしい。お給料も上がったとか。社内の付き合いで興味もない競馬場に足を運ばなければならなかったくらいだから、よかったのだろう。

 彼女たちは私が突拍子もないことを口にしても、当たり前に信じてくれる。それが嬉しい。いい友達に出会えたと心から思う。

「それがいいよ。で、同じサークルに入っとけば?」
「だよね。今でも結構マメに顔出してるって聞いたし」
 彼女の想い人が所属していたのはオカルトサークルだ。地味すぎる。オカルトにまるで興味のない恋する乙女は、それでもいいらしい。

「そういえば、大学どこにするか決めたの? さすがにそろそろ決めないとマズくない?」
 小首を傾げるその仕草は、小動物を思い起こさせる。時々相棒もやる、目にした人をほんのり幸せにしてくれる仕草だ。

「実はまだ決めかねてて……私も同じ大学にしようかなぁ。家から近いし」
「そうしなよ! 一緒にサークル入ろう! でねでね、一緒に勉強しよ! 私ちょっと厳しいんだぁ。教えて?」
「いいけど……、それを理由に準備室通えばいいのに」
「あからさまじゃない?」
 期待と不安を綯い交ぜにしたような彼女の表情は、同性の私から見ても女の子らしくて本当にかわいい。まさに恋する乙女だ。

「正しき教師と生徒の図だと思うけど?」
 そわそわしだした彼女に、「早速行ってみれば?」と声をかけると、あっという間に鞄片手に教室を飛び出して行った。恋する乙女のパワーは凄まじい。

 彼女が副担任が好きになったきっかけはとても単純だ。廊下の角でぶつかったらしい。その時、転びそうになった彼女を大きな体が揺らぐことなくがっしりと支えたそうで、一目惚れならぬ、一抱き惚れ。一瞬抱きしめるような体勢になったらしく、その瞬間どうしようもないほど胸が高鳴ったらしい。
 恋に落ちる瞬間なんてそんなものだろう。私もそうだった。

「すっぽりと身体全部が包み込まれたの。なんか、ぴったりきたの」
 うっとりとした声を何度聞いたことやら。大柄な副担任と小柄な彼女の相性は良好だ。おっとりとたおやかでいて行動力のある彼女と穏やかで優しくも繊細すぎる副担任。彼らの未来は明るい。



 家に帰り、夕食時にようやく志望大学を決めたことを両親に報告すれば、二人とも家から通える大学だと喜んだ。

「一人暮らしした方がいいかと思ってたけど……」
「いいじゃない、近いんだからここから通えば」
「そうだぞ。お父さんたちは嫁に行くまでここにいてほしいと思ってるんだ」
「それに、一人暮らしなんかしたら、あの錬金ストーカーに何されるかわからないわ」
 心配よりも面白半分に笑っている母に、父も「あれは本当にしつこい」と眉を寄せながらもその目は笑っている。足元では相棒がふんと鼻を鳴らしながら、絹のフィラメントをぱたぱたとはためかせている。

「大学卒業までは、私たちの娘でいてくれるんでしょ?」
 口元に笑みを浮かべながらも、母の目は真剣そのもの。隣に座る父の目も穏やかながらその目は笑っていない。
「そのつもり。でも──」
「わかってる。さすがにそれ以上待たせるのはかわいそうだわ」
「父親としてはいつまでも待たせておきたいけどな。彼以上にお前を想う人が現れるとは思えないからなぁ」
 鼻の奥がつんと痛む。二人とも何もかもわかったような顔で、何も聞かずにただ笑ってくれる。私を信じてくれる。魔女である私をそのまま受け入れてくれた、家族になってくれた人たち。

「私、二人の子供でよかった。きっとお父さんとお母さんじゃなかったら、こんなに思うままに生きられなかった。私の親になってくれてありがとう」
 改めて言葉にするのは照れくさい。けれど、思った時に言っておかないと言わず仕舞いになってしまいそうで、必ず口にするようにしている。短い一生に「いつか」という言葉は意味を持たない。

 二人揃って一瞬きょとんとした後、やはり揃って顔をほころばせ、子供の頃から見慣れている慈しむような優しい笑顔を見せた。

「違うわ。あなたが私たちを選んでくれたのよ。あなたが、私たちのところに来てくれたの。ありがとうを言うのは私たちの方。私たちの娘として生まれてきてくれてありがとう」
 私がどんなふうに生まれたのかは知らない。けれど、こんなに愛おしげに見つめてくれる両親の元に連れてきてくれたのは、間違いなく先生だ。家族を知らない私に家族を与えてくれた。

『私のことも忘れないで』
 足の甲にとんと前足を乗せた相棒の声に視線を落とせば、伏せたまま拗ねたようにそっぽを向く。
「忘れるわけないでしょ」
 椅子に座ったまま手を伸ばし、その後頭部をかしかし掻いてやると、気持ちよさそうに目を細めた。



 かつての私は一人で生きていた。魔女とはそういうものだ。家族はいない。人とは馴れ合えず、けれど人を助けるために存在する。
 気付けば魔女だった。それ以前の記憶はない。魔女として覚醒した瞬間、それまでの全ての記憶を失う代わりに、魔女としての全てが目覚める。それは生まれ変わることと同じ。

 魔女としてなんとか日々を繋いでいたあの日、急にどうしても必要になった薬草を探しに近くの森に入った。そこで出逢ったのが同じ薬草を探していた先生。自分よりずっと年上の男の人。
 日が傾きだした途端そわそわし始め、女性一人は危ないからと家まで送ってくれた。誰もが遠巻きにする魔女なのに。
 それから時々森で会うようになり、毎回必ず家まで送ってくれた。まるで私だけの騎士のように。先生の目には危なっかしい魔女の小娘が映っていたのかもしれないけれど。

 かつての記憶が時々浮上しては現在の記憶の影に隠れ、そして遠い過去へと埋もれていく。
 いついかなる時でもはっきりしているのは、自分が何者であるか、大切なものは何か、そのふたつだけ。それが今の私を構成するただふたつのエレメント。
 今も昔も変わらずに、刻一刻と深まる想いは、どれほどの言葉をもってしてもきっと伝えきれない。
 恋しくて恋しくて、瞼の裏にその姿を思い浮かべると涙が滲むのは、今も昔もただ一人。

「君がいる今が一番幸せだ」
 そう言うたびに壊れそうな笑顔を見せるかつての夫。先生が何よりも大切。