はてしなくもはかない恋物語
眼鏡


「また担任にいいように使われて……」
「そう思うんだったら、もう少しマシなこと書いてくれよ」
 情けない顔で笑う副担任は、人がよすぎて学年主任でもある担任のいい使い走りだ。本来進路指導は担任の仕事のはず。
 密室にならないよう扉が開け放たれたままの放課後の進路指導室。人目のないところで互いに口調が砕けるのは、単に教師と生徒以上のちょっとした知り合いだからだ。

「じゃあ、適当な大学名書いておきます」
 返された用紙を受け取りながらそう言えば、人のいい副担任が顔をしかめた。

「適当じゃなくてちゃんと考えろよ。成績悪くないんだから」
「ちゃんと考えたからこう書いたのに」
 ちょっとむっとしただけで、目の前に座る大柄な副担任は慌てたようにいくつかの大学のパンフレットを手渡してきた。人がよすぎる上に少々デリケートすぎるのがこの副担任のいいところだ。
 手にしたパンフレットをざっと見れば、全体的にもう少しがんばらないと入れないところが多い。

「将来の夢はないのか?」
「将来の夢がこれです」
「お前はファンタジーの世界に生きているのか? まさか! 知り合いにいるとか? 弟子入りするとか? やっぱり現代にもいるのか!」
 若干前のめり気味なのは、副担任がオカルト好きだからだ。時々屋上で未確認飛行物体を呼んでいるとまことしやかに噂されている。実際に呼ぼうとしているらしく、件の数学教師に苦笑いされていたけれど。

 数学教師のくせに無駄に白衣を羽織る男に妙に絡むのも、そのオカルト好きからきている。たまたま何かに走り書いた天使の言葉を見られたとか。それ以来、見た目だけは年も近い数学教師を無理矢理飲みに連れ出してはオカルト知識を引き出し、これでもかと目を輝かせているらしい。
 猫背の数学教師は生きる神秘(オカルト)だ。その知識も半端ない。なにせその実態は、時に逆らい長きを生きる、いにしえの錬金術師であり、稀代の大魔術師なのだから。

「私の存在がファンタジーなんです」
 ついに副担任が頭を抱えた。魂の復活(アルス・マグナ)で誕生した私は、間違いなくその存在自体がファンタジーだ。

 事実なんだけどな。そう思いながら、今の実力のまま入れる大学をパンフレットの中からいくつかピックアップする。入学金に授業料……また錬金してもらわないといけない。
 大学に行ったふりをしてやり過ごそうかと思っていたけれど、あのストーカー魔術師にそんな小手先の嘘が通じるはずもない。真面目に受験することを考えよう。

「お前見ていると、思い出すヤツがいるんだよ」
「誰ですか?」
「俺の親友」
 ああ、彼。そう呟くと、副担任が教師から知り合いの顔に変わる。

 副担任の親友は私の親友とお付き合いしている。学校には内緒で副担任ともうひとりの親友も交え、一緒に遊んだこともある。帰ってからいじけた先生にしつこくぐちぐち文句を言われたのも、まあ、ある意味いい思い出だ。
 誘ったのに来なかった引きこもりのくせに。たまには外で一緒に遊びたかったのに。中身おじいちゃんな先生は「えー……」と言ったまま無言で首を横に振った。絶叫マシンが怖いなら怖いって言えばいいのに。変なところで格好つけたがるのは昔からだ。
 できるだけたくさんの思い出を作りたいのに。ストーカーしているだけじゃ二人一緒の思い出にはならないのに。私は、あなたと一緒に笑い合いながら生きたいのに。

「その思い詰めたような雰囲気、過去のあいつにそっくりだよ」
 巡らせていた思考が解けると、目の前には少し心配そうでいて人のよさそうな副担任の顔。思い詰めているつもりはなかったものの、端からはそう見えるのかもしれない。気を付けよう。

「どうしようもなくなる前に誰か頼れよ。遠慮なんかするな。お前たちはまだ遠慮なく大人を頼っていいんだから」
 その言い方があまりにも親身に聞こえて、素直に「はい」と返せば、表情を緩めながらひとつ頷き、知り合いから教師の顔に戻る。

「それ、明日までな。適当じゃなく、ちゃんと考えて書けよ。ご両親ともよく相談して」

 頭ひとつ下げて進路指導室を後にする。戻ってきた進路調査票。考えに考えた末、投げやりな気持ちで書いた第一希望は魔女。それ一択。決して間違ってはいないのに、現代日本では通じなかった。当たり前か。



 なんとなく、そのまま帰る気にはなれず、教師一人一人に与えられている準備室に足が向かう。生徒数が減ったせいで生まれた空き教室を改装し、教師用の個室が用意されている。使用許可を申請するのはもっぱら若い教師たちばかりで、毎月少なくはない使用料を光熱費の名目で徴収されることから、職員室で幅を利かせられる年配の教師たちは使用していない。

 先生の準備室は階段のすぐ脇。放課後の人気のない階段を静かに最上階まで上り、あたりを見渡し、誰もいないのを確認してから、天使の言葉で描かれている結界の魔法陣が浮かぶ扉を小さくノックして素早く中に滑り込む。
 先生の結界は決して私を阻まない。いつだったかそれが嬉しいと伝えると、当然だ、私の術は完璧だ、と胸を張っていた。当然だと思ってもらえていることが嬉しいのに。

 六畳にも満たない小部屋。スチールの棚やロッカーが並び、窓際には同じくスチールの机と嫌な音を立てて軋む回転椅子。ぎしぎし悲鳴を上げながらその回転椅子に座る白衣が椅子ごと半回りした。

「で、背中に隠したのはなんですか?」
 いつもは猫背のくせに、妙に背筋が伸びている。むしろ仰け反っている。

「なんでもないよ!」
「まさか、またマンドレイクを手に入れたんじゃないでしょうね」
「違うよ!」
 この焦りよう。今隠したのはマンドレイクじゃないけれど、マンドレイクもどこかに隠していることが丸わかりだ。なるほど、不自然に膨らんでいるカーテンの裏か。

「先生、何度も言ってますけど、マンドレイクは毒草ですからね」
 素早く窓際まで行き、カーテンをはぐれば、案の定マンドレイクが鎮座していた。

「わかってるよ! 捨てるのはかわいそうでこっそり育ててるだけだから!」
芥子(オピウムポピー)大麻(カンナビス)まで育てないでくださいよ。日本じゃ捕まりますから」
 一歩遅かった先生を振り返り、それはないだろうと思いつつ念を押す。できれば鳥兜(アコナイト)をマンションのバルコニーで育てるのもやめてほしい。

「さすがにそれはない」
 急に真面目な顔できっぱりと否定した。うん、これは大丈夫。さすがに日本ではシャレにならない。

 薄く開いた窓から入り込んできた春の香り。窓の外には散りゆく桜。今年はいつもより早く咲いた。そして、いつもより早く散り始めている。
 卒業式が終わり、あと少しで三学期も終わる。あと一年で高校も卒業。時間は確実に流れているのに、目の前にいるかつての夫だけが、いつまでも取り残されたようにその流れに逆らったまま留まり続けている。永遠に咲き続ける桜などないというのに……。

「で、背中に隠したのは?」
 振り向けば、急に振り返られて慌てたのか、背後に回した手元から何かが床に落ちた。かしゃんと床で音を立てたのはメガネ。壊れていないかと慌てて拾う。

「なんでメガネを隠すの? ……ああ、老眼鏡?」
「違うよ! ただの近視だよ!」
 老眼鏡か。別に隠さなくてもいいのに。

 見た目は二十代半ばの白衣の数学教師は、実は五百歳近いおじいちゃんだ。そりゃあ、老眼にもなるだろう。見てくれだけは魔術で変えられても、その中身までは変わらない。不老不死になったのは、たしか五十歳を過ぎていたとかいなかったとか。本当はもっと後かもしれない。

「先生。別に老眼でもいいから。見えないよりちゃんと見えた方がいいでしょ?」
 拾ったメガネを手渡せば、ばつの悪そうな顔で受け取る。

「前髪ももう少し切ればいいのに」
 長すぎる前髪をそっとかき分けると、照れくさそうにはにかみながら半歩後退った。いい歳したおじいちゃんなのに、まるで少年のようにピュアなところがある。

「で、どうしたの? 君がここに来るなんて珍しい」
「んー。どうしようかと思って」
 進路調査票を見せれば、一瞬の躊躇いのあと、諦めたかのようにメガネをかけて視線を落とし、その目を輝かせた。

「日本だと魔女じゃなくて呪術師か祈禱師になるんじゃないか?」
 いやいや、そういう問題じゃない。そう思いながらも、それが彼に認められていることに肩の力が抜けた。私は魔女のままでいい。

「魔女はダメだって」
「そうなの? カニングフォークも立派な職業なのに」
 だよね。だがしかし、現代日本ではダメらしい。

 年若く見える数学教師は、その歳には似合わない鼻に乗せるようなメガネのかけ方をして、そのレンズの上から上目遣いの視線が合わさる。まるでおじいちゃんのような仕草。
 その仕草が好きだと言ったら、きっとまたおたおた狼狽えるのだろう。

「先生、大学行ってもいい?」
「君のご両親はそのつもりだよ。そのために純金積立をしているくらいだ。君だってそのつもりだっただろう?」
 確か両親は「錬金積立」と言っていたような……。両親はことあるごとに先生から金をむしり取り、私のために積み立ててくれている。

「できるだけバイトするから」
「君はそんなこと心配しなくてもいいんだよ。そもそも、バイトするくらいなら私の家の──」
「片付けは自分でしてください」
「バイト代出すから!」
 いつまでたっても片付けられないのも昔からだ。片付けるのが嫌なら物を増やさなければいいのに、ここ数年はネットでぽちぽち無駄な物ばかり買っている。あのマンドレイクもきっとそのひとつ。

 意外と知られていないことだけれど、錬金術師は総じて引きこもりだ。アグレッシブな錬金術師などついぞお目にかかったことはない。

「で? 何を隠しているんですか?」
 慌てた白衣のポケットには、私にそっくりなほぼ裸のフィギュアが隠しきれずにその顔を覗かせていた。

「変態」
「違うよ! 最高傑作だよ! ついさっき完成したばっかりなんだよ!」
 残念ながら私はそんなメロンみたいな胸ではないし、骨格がおかしなほどウエストも細くなければ手足も長くない。そもそも水着姿になったことなど一度もない。塩素アレルギーを理由に水泳の授業は子供の頃から欠席している。当然そう仕向けたのは目の前の変態ストーカーだ。

 どうして錬金術をこんなことにしか使わないのか。ため息すら出ない。

 もう一度低く「変態」と罵り、手のひらを差し出せば、渋々といった態で無駄に精巧なフィギュアを渡してきた。その手触りが完璧なほど人の肌にそっくりで薄ら寒くなる。
 捨てないで! との必死の懇願など聞こえたりはしない。