はてしなくもはかない恋物語
マンドレイク


 この春赴任してきた数学教師。
 両の目を覆う前髪をばっさりと切り落としたい衝動に駆られる数学教師。
 ぼそぼそ話す白衣の猫背を思いっきり蹴り飛ばしたくなる数学教師。

「先生。さりげなく窓辺でマンドレイク育てるのやめてください」
 慌てたように椅子から立ち上がり、ぎょっとした顔で見下ろさないでほしい。わからないとでも思っているのか。

 教師ひとりに一室ずつ与えられている準備室の窓辺にさりげなく置かれていたマンドレイクの鉢植え。それをゴミ箱に捨てようとした瞬間、女々しい悲鳴が上がる。

「やっと手に入れたんだよぉ。普通の花屋には売ってないんだよ?」
「一介の数学教師が手に入れていい代物じゃありません。普通の花屋は毒草なんて売りません」
 マンドレイクの鉢植えを胸に抱え、血色の悪い青白い顔で必死に首を横に振る男。小さく「私の恋なすび」と呟いているあたり、何に感化されたのか。

「先生、わかってますよね。マンドレイクはその全てが毒です。人に使ってはいけません。最悪死にます」
 驚いたように目を見開く数学教師。知っているくせに。なぜ今更事実をねじ曲げてファンタジー世界にダイブするのか。
 さりげなく背中に隠されたのは、今話題のファンタジー小説だ。

「だって、媚薬だって、惚れ薬になるって書いてあったもん。捨てるくらいなら引っこ抜く!」
 いい年して何をほざいているのか。まったく。

「いいですか、マンドレイクは引っこ抜いても叫びません。知っているでしょう? ただの植物なんですから」
 なぜ心底がっかりとした顔をする。大昔から知っているだろうに。
 身体をくねらせながら「だってだって」と繰り返す白衣の男に、重いため息をひとつ返す。

「とりあえず、うっかり媚薬や惚れ薬を口にするほど、私は落ちぶれてはいません」
 くねらせていた身体の動きをぴたりと止めて目を瞠った数学教師の顔がおもむろに赤く染まり始めた。わからないとでも思っていたのか。

「先生。とりあえずそんなものに頼らず、普通に告白してください」
 真っ赤な顔で口をぱくぱくと開け閉めしていた数学教師は意を決したように口を閉じ、ごくりと唾を飲み込んだ。喉仏が上下に動き、再び口を開けようとする白衣の男を制す。

「大学卒業後に」
 がっくりと肩を落とす白衣の教師。今告白なんかしたら免職だ。私がここにいるだけでも大問題なのに。

 ふと向かいの校舎の窓からちんまりと鉢に植えられたマンドレイクが見えた。ぎょっとしたのは私の方だ。思わず我が目を疑った。
 だいたい数学教師なのになぜ白衣を着ているのか。どうせなら化学教師になればよかっただろうに。

「君、まだ二年生だろう……」
「あと五年半、我慢してください」
 右と左でほんの少しだけ色の違うその瞳がせつなく揺れる。

「四百年待ったんでしょ? あと五年半くらい、どうってことありません」
「四百四十一年だよ」
 いい年してもじもじとはにかむ、いにしえの錬金術師。かつての大魔術師。

「卒業したら、私の許に来てくれる?」
「嫌。私が死んだ一年後に再婚した人なんて」
「女王に押し切られて仕方がなかったんだ! 白い結婚だったんだよ!」
「しかももう五百歳のおじいちゃんでしょ? 私まだ十七歳だし」
「まだ四百八十九歳だ!」

 見た目二十代半ばの、前髪が鬱陶しい、ひょろりと背が高く猫背なその人は、かつて魔女だった私の夫。たった一年だけの結婚生活。私はあっけなく死んだ。

「それに、不老不死になったあなたは、また私を失うことになるんだよ? 耐えられる?」
「君も不老ふ──」
「嫌。人はね、死ぬものなの。それが摂理なの」

 天使の言葉を理解したかつての私の夫は、その天使たちから恩寵の欠片(賢者の石)を賜り、不老不死となって私の魂の復活(アルス・マグナ)を試みた。成功するまでに四百年もの月日が流れていたと、幼い頃から何度も聞かされてきた。

「だいたい、いきすぎたストーカー行為のせいで、接近禁止命令が出ているでしょ?」
「あれはなんとか取り下げてもらったんだ」
 また金で解決したのか。

 私の両親は、まあ、いわゆる金の亡者だ。ことあるごとに彼から金を巻き上げている。
 どういう契約のもとに私が生まれたのかは、両親も彼も決して口を割らない。
 生まれた瞬間から私のストーカー化したかつての夫は、今では金の亡者にいいように転がされている。
 ただ、なかなか子供ができなかったと聞く両親は、私を娘としてこのうえなく愛してくれている。ただちょっと金に目がないだけ。巻き上げた金はそのほとんどが私に使われているのは、彼も知るところだ。

「大丈夫だよ。金を生み出すのは意外と簡単なんだ」

 その昔、魔女や錬金術師、魔術師は実在した。あの頃の世界には、今ではもう失われてしまった魔素が、まだわずかながら残っていた。

「それに、君と結ばれると私の時は進む」
 それも何度も聞かされてきた。
 けれど、私は知っている。
 数百年も停滞していた時が進む時、それはそれまでの反動で加速する。私と結ばれた途端、彼の寿命はあっという間に尽きてしまう。

 だから私は頷かない。

「とりあえず、そばにいるだけで満足してください」
「満足できない!」
「だったら本来の姿に戻ればいいでしょう? 意味もなく若い姿を保とうとするから、無駄に何かが滾るんです」
「だって、君だって中年は嫌だろう?」
 眉を寄せ、唇をとがらせる数学教師は今更何を言っているのか。

「結婚した時、すでにあなたは四十七歳でしたけど?」
「だから余計にだよ! せっかくだから若い私とめくるめく愛の世界に旅立とう」
「エロオヤジ」
 頭上に「がーん!」という文字が浮かんでいそうな表情のまま、ぴきりと固まってしまった数学教師は、次の瞬間よろよろと椅子に腰を落とし、がっくりとうなだれた。

「やっぱり中年は嫌なのか……」
 指先をもじもじさせながら、マンドレイクの鉢植えに向かってぶつぶつと呟き始めた。長生きしすぎると色々こじらせてしまう。目の前にいる数学教師はその生きた見本だ。

「たった一年しか君と結ばれなかったんだ。おまけに私はすでにいい年で……」
「一緒にいられただけで幸せでしたから」
「君はあっさり逝ってしまったし……」
「私を呪い殺した人と再婚したくせに」
 これでもかと目を見開き、次の瞬間には怒りで全身を戦慄かせたかつての私の夫は、さらに次の瞬間、涙を流した。そんなふうに怒ってくれて、悼んでくれただけで、もう十分だ。
 ごめんね、つい意地の悪いことを言ってしまった。

「あなたに魔女の妻はふさわしくなかったのよ。女王とあのお嬢さんが雇った魔女は、私よりずっとずっと腕がよかった。それだけのこと」

 本当は、白い結婚(Mariage Blanc)だったことも知っている。私を殺したあの人と結ばれていたならば、私は復活できなかったはずだから。

 だから私は願った。かつて魔女だった頃の知識を頼りに、神に願った。
 もう魔素のないこの世界で、その代わりとなるものは命そのもの。私の五十年分の命を代償に、彼と結ばれた後の一年を。
 私の寿命は七十四年。そのうちの五十年と引き替えに、彼との一年を得た。

 だから私は、二十三歳までは頷かない。一秒でも長く一緒に生きたい。
 一生分の一年を、彼とともに。



「とりあえずこのマンドレイクは、処分しますよ」
 再び女々しい悲鳴が上がった。