テディ=ベア
もうひとつのテディ=ベア


 ぎょっとした。
 それを見た瞬間、まさしく、ぎょっとした。

 高校二年目の新学期、クラス替えが行われた新たな教室に足を一歩踏み入れた途端、目に飛び込んできたのは茶色の物体。

 ヒグマ!

 ひっと喉がひきつれて、一目散に逃げ出した。
 どこに向かうでもなく、全速力で廊下を走りながら、ふと思う。
 いくらなんでも教室にヒグマが居て、しかも頬杖付きながら窓の外を眺めているとか、ちょっと有り得ない。しかも誰一人騒いでいなかった。よくよく思い出せば制服すら着ていたような気がする。
 駆け足が小走りになり、小走りからさらに歩幅が縮んで、ついには立ち止まって膝に手をつき、ぜえぜえと上がった息の合間に無理矢理ごくんと唾を飲み込む。喉の奥がからからに乾いて痛い。上がった息が整うころ、頭の中も整理されてきた。
──誰かのいたずら。
 きっとそうだ。着ぐるみだ。

「アホくさ」
 真に受けた自分が無性に恥ずかしい。後で絶対にまた笑いものにされる。新しいクラスメイトとはなんとか上手くやっていきたいと思っていた矢先にこれだ。ヒグマの着ぐるみの中の人を蹴り飛ばしたい。

 教室に戻ろうと、踵を返した途端、またしてもぎょっとした。

「お前さ、俺が何に見える?」
「ヒグマが喋った!」
 いつの間にか背後に忍び寄っていたヒグマに、じりじりと壁際に追い詰められる。
 あまりの恐怖に体がかたまる。怖すぎてヒグマから目がそらせない。

 クマと出遭ったら目を合わせちゃいけないんだっけ? 目をそらさずゆっくりと後退するんだっけ? 頭の中にいい加減なクマ遭遇対処法が渦巻くも、何がなんだかわからない。
 クマ鈴! そんなどうでもいいことが思い浮かんだ。死ぬときって、走馬燈のように色んな記憶が頭に浮かぶって聞いていたのに、私の頭の中はどこかで見たクマ鈴だらけだ。

 目の前に迫りくるヒグマ。後退ろうとして、踵が壁に突き当たり、背中までもが壁にぶつかった。目をそらしたくても怖くてそらせない。そらした途端、がぶっと殺さ(やら)れる!

「なあ」
 ヒグマに壁ドンされた。いまどき壁ドンはない。
 もうどうでもいいことしか考えられない。どうでもいことしか考えられないのに、喉の奥は「ひっ」と鳴る。
 クマ手が思ったよりも大きくて、壁ドンされたときに風圧を感じた。おまけに壁に爪があたったのか、耳のすぐ側でがつんと音を立てた。頭の中でひーひー喚く。怖い。そんな鋭い爪でざっくりやられたら、間違いなくあっさり死ねる。
 そんな自分を嘲るかのように、けたけたと膝が笑い出した。

「今、ヒグマって言ったよな」
 間近に迫ってきたヒグマフェイスに、かくかくと首が上下に動く。生臭い息がかかるかと思ったら、そうでもなかった。ふわっと香ったのはミント。歯磨いた?
 ……そうだ。忘れてた。これ、着ぐるみだった。間近で見てもよく出来ている。よく出来すぎていて怖い。

「中の人、誰?」
 気丈に言ったつもりなのに、出てきた声はか細く震えていて、泣きたくなるほど情けない。かくかく震える膝よ、いい加減しゃんとしろ!
「今日から同じクラスの、セオドアだ」
「あ、留学生?」
 カタカナな名前になるほどと納得した。仮装か。むこうの文化的には、こういうものなのだろう。どこの国の人かは知らないけれど。クマの仮装ってことは、カナダか? いい加減、クマフェイスをとって欲しい。いい迷惑だ。クマ手もやめろ。その爪がめちゃめちゃ怖い。

 なぜかヒグマが、にいっと牙を剥いて笑った。リアルすぎて怖いわ!
 と思った次の瞬間、目の前のヒグマが一瞬で人の姿に変わった!

「間抜け面だな」
 びっくりして呆けていると、言葉の暴力にがつんと殴られた。
 まあ、実際間抜け面なのだろうなと、ほんのわずかに残った冷静な自分が納得しながら、冷静じゃない自分に口を閉じるよう命令する。
 ってか、着ぐるみどこやった? なに? 中の人はイリュージョニスト? 今時は色んな人がいるからな……。

 これはきっと関わったら面倒な人だ。

 タイミングよく鳴った予鈴に、未だ震える膝を目一杯応援しながら、素早く壁ドンから抜け出し、またもや一目散に教室に駆け戻る。
 そういえば、壁ドンされたときに頬を擦ったクマ毛が、妙に柔らかかったことを思い出した。あれでリアルヒグマじゃなければ、ちびっ子どころか、もふ好きな老若男女に大ウケだろうに。あのリアルすぎる顔と鋭い爪がなければ、思いっきり抱きついて、思う存分もふりたい。
 あれ、そういえば、中の人はどんな顔だったっけ。まあいいや。名前……も忘れた。



 知らなかったのだから仕方がない。
 彼がヒグマに見えるのは、彼の一族以外私だけだって。
 しかも彼らは異世界人だったなんて。
 異世界にあった聖地と呼ばれる場所と、富士の樹海がある日突然繋がって、そこにこっそり丸太小屋王国を築いていたなんて。
 おまけにその王国の第二王子だったなんて。
 放蕩三昧の挙げ句、全寮制のこの学校に放り込まれたなんて。
 知らなかったのだから仕方がない。

 まさか前世の記憶があるせいで、脳の一部が覚醒していたからこそ、異世界人を見分けられたなんて、そんなこと知る由も無い。
 今まで幽霊どころか妖怪だって宇宙人だって見たことがなかったのに、なぜ異世界人にだけ反応したのか、そんなこと知る由も無い。
 
 クマの罠に落ちるのは、もう少し先──。

「あいつ、チョロそう」
 そんなことを呟かれていたなんて、知らぬが仏というものだ。

posted on 8 June 2016

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