硲153番地
風が光るとき
二十六回目 夏闌②


「近いうちに彼女に会えるはずだ」
 そう秀が言ったときの巧の表情は複雑だった。驚きと怪訝さが同時に現れていた。どちらも当然な感情だろうと思う一方で、それだけじゃないような気がして秀は声を上げた。
「なに?」
「彼女から連絡来たのか?」
「いや、直接連絡が来たわけじゃない。どう言えばいいのか……勘みたいなものかな」
 巧の表情が一層複雑になる。秀は不満を口にした。
「さっきからなんだよ。なんかあるのか?」
 ひしめき合うテーブルの間を酔った中年の男が人にぶつかりながら歩いている。秀たちのテーブルを通り過ぎる際、よろけて巧の肩に手を置き、秀の肩にもぶつかった。よれたスーツ姿の男は人にぶつかるたびにへらへら笑らいながら謝っている。目的もなくふらふら徘徊しているようだ。
「場所を移そう。ここじゃ落ち着いて話もできん」
 真顔でそう言って席を立った巧に秀も続く。巧の怖いほど真剣な表情に秀は不安を覚える。彼女に何かあったのか。彼女が知る連絡先はかつて巧が渡した名刺だけだ。
 彼女から連絡があったのか。秀は聞き糾したい気持ちを抑え、会計を済ませてビルを降りた。屋上に微かにあった夜の涼は一層遠くなり、地上には重苦しい真昼の熱気が居座ったままだった。
「あー、俺今日は本社の仮眠室に泊まるつもりなんだよ」
 これまで巧は東京に戻るたびに秀のところに泊まっていた。巧と秀の会社はわりに近い場所にある。この界隈から移動したくないのか、どの店に移ろうか、と巧は辺りを見渡している。
「タエさんに連絡してみるよ。店より落ち着いて話せる」
 げ、っと言いながら巧の顔が引き攣る。
「今のところ蝉に集られたり激突されたり靴に死に損ないが入っていたり小便かけられたりしたことはない」
 巧はこれを一度に食らったことがあるらしい。どういう状況なんだと思わなくもないが、同じような目に遭ったら秀も全力で蝉を避けるだろう。ましてや子供の頃なら尚更だ。
 タエのスマホに宿泊許可を求めると、あっという間にカラフルな了承の意が返って来た。
「すげーな」
「だろう」
 タエは女子高生並みにスマホを使いこなす。毎日今日の収穫とそれで作った料理をSNSにアップしては、山のようないいねとコメントをもらっている。
「ただ、一泊しかできないんだよ」
「それはいい。明日には戻ろうと思ってた。洗濯物がたまってる」
 情けない顔の巧に秀は「わかる」としみじみ同意した。秀も巧も自分のテリトリーに他人が入るのを嫌う。秀が知る限り巧が女性と別れる原因は「絶対に自宅に連れて行ってくれない」というものが大半を占める。それだけで相手は巧が信じられないらしい。デートできない理由が「洗濯」だった挙げ句、それでも家に入れないときたら、相手は怒り狂うらしい。
「やっぱ乾燥機能付き欲しいなあ」
「安く見積もっても十万はする」
「だよなあ」
 社会人五年目と四年目。それなりの収入は得ているはずだが、ともに貧乏性だ。
「行く前になんか食っておくか」
 ビアガーデンの唐揚げを口にした途端、それ以上の食べ物を注文する気にならなくなった。巧も同意見だったのか、ひたすら枝豆とフライドポテトを摘まんでいた。
「たぶんタエさんがなんか作ってるよ。そういう人だから」
 蝉のトラウマとタエの料理、しばしの巡回のあとタエの料理に軍配が上がったのか、駅に向かう巧の足取りは軽快だった。



「ここ? この奥に家があるのか?」
 巧の驚いた声に、秀はほんの数ヶ月前の自分を思い出した。
「俺も最初びっくりした。てっきり神社か寺の敷地だと思ってたんだ」
 だよなあ、と言いながら巧はこんもり茂る木々を見上げた。
「蝉の声がしない」
「本来蝉は夜鳴かないっての、あれ本当だよ」
 外灯の明かりに夜も鳴き続ける蝉が少なからずいる。この周辺は寺社に配慮してなのか、外灯が他より低い位置に据えられ、歩道だけを照らしている。そのおかげなのか、今のところ夜は静かだ。今も耳に届くアブラゼミ声は遠い。
 境井家へと続く夜のアプローチは昏い。闇を覗いているような気になる。一歩敷地内に足を踏み入れると、人感センサーによって足元灯が灯り、奥へと(いざな)うように点々と朧な明かりが続く。見方によっては不気味さが増すのだ。
「明かりが点くと余計に闇が深くなる」
 秀と同じ感想を口にする巧にしかし恐怖は見えなかった。
「怖い?」
「いや、なんだろうな、むしろ安心する」
 やはり同じ感覚を掴んだ巧に秀は感心した。
「俺も同じなんだ。普通なら怖いと思うんだろうけど、なんかここは安心するんだよ」
「だな。もしこれと同じシチュエーションが別の場所にあったとしたら、俺は絶対に近寄らない。どう見たって獣道だよこれ」
 わかるよ、と笑いながら秀は闇に足を踏み入れ歩を進める。巧も怖じけることなくそれに続いた。次第に車道からの騒音が遠退き、木々のざわめきだけが二人の男を包み込む。
「すげーな、ここ。気持ちいい。おまけに涼しい」
「だろ?」
 不意に秀は足を止めた。タイミングを計ったかのようにぼうっと人の顔が暗がりに浮かんだ。秀の背後から小さく「うわっ」と声が上がる。
「同じ手には引っかかりませんよ。コウ、お世話になっているタエさん」
 顎の下から懐中電灯で自分の顔を照らしていたタエがにたりと笑う。不自然な陰影が不気味だ。タエは以前にも同じ手で秀を驚かしている。今度は秀の背後から吹き出す音が聞こえた。
「初めまして──」
「名乗りはいいよ。コウだね。いらっしゃい」
 そういえばそうだったと、事前に巧に告げ忘れた秀は、振り向きざま「この敷地内ではフルネームは禁止なんだ」と説明する。タエに「違うよ、本当を隠すってことだよ」と訂正された。その両方に怪訝そうにしながらも巧は「わかった」と返してきた。
 顎下の懐中電灯をそのままに、タエが巧の前に進み出た。じっと彼の顔を見つめたタエは、次に秀の顔を見て不気味な陰影のまま言った。
「コウは奥に入れてもいい」
 どういう基準なのか。秀は見上げてくるタエを見つめ返した。途端タエはくるりと向きを変え、家へと戻っていく。
「奥ってなんだ?」
 小声で訊いてきた巧に「俺の部屋って意味だと思う」と秀も小声で返す。
 タエの後ろを歩きながら、一泊限定の来客用の座敷があること、その奥に秀とタエが住んでいることを秀がざっと説明すると、巧は「俺様特別待遇」とふざけた口調で笑った。
「すげー!」
 やっぱり驚くよな、と笑いながら秀は「ただいま」と声をかけ玄関の自動ドアをくぐる。巧も「お邪魔します」と事前に教えた通り家に声をかけた。
「自然と挨拶したくなる家だな」
「わかるよ。朝起きたときと寝るときにも、いつの間にか自然と家に挨拶するようになった」
 二人のやりとりを浴衣姿のタエがにこにこと眺めていた。
 お互いざっと汗を流し、秀の部屋着を借りた巧を連れ、秀がダイニングに顔を出すと、テーブルに小鉢がいくつか用意されていた。
「二人とも麦酒でいいのか?」
「ありがとうございます」
 小さく「ばくしゅ?」と呟きながらも巧は「お構いなく」と秀に続けた。
 くるくると動き回るタエはいつ見ても小気味好い。
 巧は料理を口に運ぶたびに「旨い旨い」と心からタエを讃えた。
「お前が快適すぎるって言ってた意味がわかるよ」
「だろ」
 自慢気な秀に巧の目が細められた。
「なんかお前、落ち着いたな」
 しみじみとした声を出す巧に秀は首をひねった。
「お前さ、自分では気付いてないと思うけど、他人に全く関心がないだろう?」
「そうか?」
「そうなんだよ。お前、施設長が離婚していることや息子がいること知らないだろう?」
 秀の目が驚きに見開かれる。
「知らなかった」
「な、お前って相手からもたらされる情報以外、自分からは知ろうとしない」
「そんなことないよ。聞いちゃいけないのかなって思うことだってある」
「それだって、その時そう思うだけで後々気になって調べたり、聞き返したりはしないだろう」
 確かに。納得する秀になおも巧が続けた。
「お前の興味は彼女にしかない。俺にはそれがすごく危うく見えた」
「よく見てるね」
 料理を運んできたタエが巧に声をかけた。
「俺にとってこいつは結構大事なんで」
 臆面もなく巧がそう言うと、タエは満面の笑みで「キジ肉の味噌漬け」と香ばしく焼き上がった肉を差し出した。
「キジ! 食べてみたかったんですよ!」
 嬉々として肉を口に運んだ巧は、んー、と唸った。
「旨い!」
 タエはしたり顔で、巧は満足げに笑う。二人とも馬が合うのかいい笑顔だ。
 一方秀は考え込んでいた。
「自覚してただろう?」
 巧に駄目押しされ、秀は渋々納得する。
「してたな」
「だから、まあ、ほっといたんだけど」
 言いながら巧は料理を口に運び続ける。
「でも、彼女も同じだった」
 巧の声が温度を無くした。秀は料理に落としていた視線を上げた。
「彼女もお前しか見てなかった。俺はさ、ますます危ういって思ったんだよね」
「なにがだ?」
「お前たち、死に向かってる感じがしたんだよ」
「なんだそれ──」
 言葉の途中で秀は口を噤んだ。
「感覚的には間違ってないだろう?」
 疑問の形を取りながらも巧は断定した。
 秀は何も言い返せなかった。これまでただ彼女と一緒にいることだけを考えてきた。それは未来に繋がらない闇の中であることをどこかで自覚してもいた。だからといって、それが実質的な死に直結することはない。なるほど、だから「感覚的には」なのか、と秀は妙なところで納得した。
「最初俺はお前たちが本当は兄妹なんじゃないかって疑ったんだ」
「それはない」
 警察に保護された際、秀の身元を確認するためもあって血液型を確認されている。
「みたいだな。違って安心した。安心して余計に不安になった」
 秀はこんなに真剣な目をした巧を見たことがなかった。
「お前たちってさ、どんな繋がりなわけ? ただ想い合ってるだけじゃないよな」
「どんなって……」
 言いあぐねる秀に巧は視線で続けるよう促す。
 秀は自分が母親らしき女に捨てられ彼女の父親に保護されたこと、彼女一家と数年暮らしたこと、ある日突然彼らと引き離されたこと、気付けば施設にいたことを簡単に話した。
「それって、第三者から見た事実だろう。俺が知りたいのは二人の間に何があるのかってことだよ」
 巧のじれた声に、秀は話して理解されるだろうかと不安になった。
 口ごもる秀に巧はいきなり言った。
「俺な、実は普通の人には見えないものが見えるんだよ」
 突然の巧の告白に秀は虚を衝かれた。冗談にしては巧の目は真剣だった。
「たぶん、オーラとか言われるものの一種だと思うんだ。生きものの光が見える」
「俺は風が光って見える」
 まるで誘われるように、するっとこれまで誰にも告げたことのない事実が秀の口を衝いた。
「それが彼女との繋がりか」
「たぶん。彼女とは時々夢も繋がる」
「彼女以外とはないんだな」
「ないな。あったとしたら繋がるのはコウくらいだよ」
 秀にとって彼女の次に位置するのは巧だ。
 いつの間にか箸を置いていた巧が腕を組み難しい顔で唸った。
「俺の知る限り、誰一人として同じ光を持ってないんだ。血の繋がりが濃ければ濃いほど似た光になるんだけど、でも全く同じってことはない。どこかしら違いがある」
 秀は巧が何を言いたいのか察した。だから「兄妹」という間違った考えに行き着いたのだろう。
「全く同じなのか」
「そう、全く同じ。だからすげー不安になった」
 巧は一度目を伏せた。秀は再び視線を上げた巧の目の中に、恐れに似た何かを見た。
「どっちかが、本当は存在してないんじゃないかと思ったんだ」