硲153番地
メリーゴーラウンド
慎司②


「まさか自転車通学ができないとは思わなくて」
 生徒玄関に向かいながら、どっち方面に帰るかを訊いた松木に、夏生は忌々しげに呟いた。
 元々夏生は慎司や松木とは学区が違うもののこの近くに住んでいたらしく、あまり考えることなく公立というだけで一番近いS高を受験したらしい。現在の彼女が滞在しているのは、S高から五キロほど離れた地区で、直通のバスはない。慎司と同じバスに乗り、慎司の父親が店舗を構えるF駅で乗り換えることになる。
 F駅を最寄りとする慎司の家からS高まではおよそ一キロ半。歩くのは少しだるい。
 S高は自転車通学を禁止しているわけではない。校内に希望者全員分の駐輪場が確保できないため、学校近くや最寄り駅周辺の駐輪場と各自が契約することになる。ただし、そもそもどこの駐輪場にも空きがないのだ。慎司が聞いた話だと、申し込んで二年後にようやく空きの連絡がくるらしい。慎司も父親のコネをもってしても空きは探せなかった。
「乗り換えるからバス代高いし」
 夏生の溜息混じりの憂いた声が続いた。
 この辺りのバス運賃は一律料金なので一区間でも十区間でも値段は変わらない。ただし、たとえ短区間でも乗り換えるたびに運賃が倍々と増えていくため、一日乗車券の方が安くなる。
 まだどこに住むか決まらない夏生は、乗り継ぎ可能となる定期券も買えずにいる。美智代という人の家か、宇都見の家、方向は違うもののどちらも最寄りはF駅になるらしい。宇都見の家の方がS高には近い。
「家が決まるまで歩こうかな」
「は? 朝から? それきつくない?」
 松木の信じられないと言わんばかりの物言いに、夏生がこれまた忌々しげに顔をしかめる。
「松木んちは? 徒歩圏内?」
「うち、S高の裏なんだよね。なんなら二人ともうちに自転車駐める?」
「いいの?」
 夏生が食いついた。彼女の嬉々とした勢いに、軽く口にした松木が少し引いている。
「僕もそれ助かる」
 慎司もそう言うと、松木は少しばつが悪そうな顔で交換条件を出してきた。
「その代わりって言っちゃなんだけど、朝起こしてよ。俺朝弱くてさー。親にも見放されてて。俺の部屋母屋にあるから余計なんだよね」
 松木の家は元々この辺りの地主で祖父母は畑をやっており、敷地だけはそれなりに広い。両親が結婚した際に建てた家に兄と姉の部屋はあるもののそこまで大きな家ではなかったせいか、三人目の子供である松木は祖父母が住んでいる母屋に自室を持っている。といっても廊下で繋がっているため、別段不便はないらしい。祖父母は朝早くから畑に出いていることもあり、誰も起こしてくれないのだと、松木が情けない顔で両手を合わせ、「頼むよ」と片目を瞑った。
「お姉さんは? 一緒に家出ないの?」
 生徒玄関で靴を履き替えながら慎司が訊く。
 慎司と松木は出席番号が前後しているため靴箱も上下に並んでいる。松木はローファーを半ば放るように下駄箱から出し、脱いだ内履きを下駄箱に突っ込んで、扉を勢いよく閉めた。夏生は少し離れた位置で音も立てずに履き替えている。慎司も夏生に倣ってできるだけ音を立てないよう履き替えた。
「出るわけないだろ。この年で姉弟揃って登校ってそれおかしいだろ」
 別に揃って登校しなくても……と思ったものの、松木の不機嫌顕わな顔を見て、慎司は「まあね」とだけ返した。一人っ子の慎司にとって姉弟関係は未知だ。
「起こすだけでいいなら」
 夏生がすかさず了承する。余程自転車で通学したいらしい。慎司も同じく「起こすだけでいいなら」と松木の交換条件を呑む。

 校舎の陰から出た途端、慎司は目を眇めた。まだ四月だというのにすでに日射しは夏を思わせる。手のひらを陰に見上げた空はほんの少しグレーがかっていた。東京の空はどれだけ晴れ渡っていても、どこかグレーが混じって見える。慎司が中学の林間学校で行った山梨の空は、澄み切った鮮やかな青だった。
 グラウンドからは野球部なのかサッカー部なのか、やけに張り切った掛け声が聞こえてくる。路地の先にある首都高と国道からは海鳴りにも似た騒音が絶え間なく響いてくる。

 グラウンドと道を挟んだ向かいにある畑の、そのさらに奥にある松木の家に寄り、彼の祖父母に慎司と夏生は挨拶をして自転車を駐める許可をもらう。
 ちょうど休憩中だったのか、畑の脇に立てられたやけに陽気なビーチパラソルの下、ビールケースを逆さにして腰掛けた彼の祖父母は、首に巻いたタオルで汗を拭っていた。
 二人ともなんのこだわりもなく、ただ松木の友達というだけで疑うことなく了承してくれた。
 農機具などが並ぶカーポートの下には、すでに彼の姉の友人たちの自転車が三台並んでいた。
「明日から朝、この二人が起こしに来てくれるから」
 そんな松木のひと言にも、彼の祖父母は甘やかしているのか放任なのかわからない曖昧さでにこにこと鷹揚に頷くばかりだ。夏生が自分の名前を言い、丁寧に頭を下げる。慎司もそれに倣った。

「玄関入って最初の部屋が俺の部屋だから。朝はもう玄関空いてると思うから勝手に入ってきて、もう殴るなり蹴るなり布団引っぺがすなり、なんでもいいからとにかく起こして」
 平屋建ての日本家屋は懐かしいような古い建物の匂いがした。広めの玄関からすぐに見える和室が松木の個室らしい。開いた襖から八畳ほどの部屋が窺えた。漫画の詰まった本棚と学習机の一部が見える。生活感のある散らかり方をしているが、乱雑という印象にならないのは、床に物はなく漫画などがきちんと並べられているからだろう。
「そんな寝起き悪いの?」
 部屋の様子を観察しながら慎司は訊いた。さすがに夏生に起こさせるわけにはいかないだろう。慎司の仕事になりそうだと覚悟を決める。
「悪いんだよ。自分でもどうしようもなくてさ」
 松木が自嘲気味に笑う。
「あんま人に言いたいことじゃないんだけど、なんか二人は俺のこと馬鹿にしないんじゃないかって思って。時間にルーズってもうそれだけで人間失格みたいだろ。そのせいで俺あんま印象よくないみたいだし」
 確かにそれは慎司もすでに何度か耳にした。同じクラスになってわずか二週間のうちに聞こえてきたことを考えるとそれなりにひどいのだろう。実際遅刻こそまだないものの、朝のホームルームぎりぎりに滑り込んでいる。
「馬鹿にはしないけど呆れはするかも」
 夏生のひと言に松木はほっとしたように笑う。
「呆れてもいいから、起こして」
「わかった」
 夏生が面白いものを見るような目で松木を見ている。確かに面白い、と慎司も思っていた。いきなり自分のテリトリーに連れてきて、しかも一番無防備な姿を見せようとする松木は今まで慎司の周りにもいなかったタイプだ。人懐っこさとは別の、一気に気を許したような距離の詰め方に戸惑いはしても嫌悪感はない。
「あのさ」
 夏生が慎司を見た。夏生の言いたいことがわかって慎司は頷いた。それに勇気付けられるように、夏生が松木に目を向け口を開いた。
「なんで四十万さん休んでいるかわかる?」
 それに松木が慎司を見た。本当のことをいえば、慎司一人で説明するには少し気が重かったのだ。
「二人とも時間あるなら上がれよ」

 松木がペットボトルのお茶を三本とポテチの大袋を持って戻って来た。
 興味深そうに部屋を眺めていた夏生は、松木に差し出されたお茶をまるで宝石でももらったかのように嬉しそうに受け取り「もらっていいの?」と訊いている。
「お茶くらいでそんな喜ぶなよ。付け込まれるぞ」
 どこか呆れたように笑う松木を気にすることなく、顔をほころばせた夏生は「ありがとう」と丁寧にお礼を言った。慎司も礼を言いながらペットボトルを受け取る。
「四十万って、美貴って名前の子だろ」
「そう、四十万 美貴さん」
「たぶんだけど、中学んときイジメられてたんじゃないかと思う」
 松木の言葉に夏生はショックを受けたように目を見開いた。
「なんで知ってんの? 中学同じだった?」
 慎司の不審を隠さない声に、松木は苦いものを呑み込んだように顔を歪めた。
「同じ塾だったんだよ、俺も」
 松木の話だと、四十万 美貴は中学でイジメに遭っていた。そのイジメていた女子たちと松木は同じ塾に通っていたらしい。
「四十万って珍しい名字だし、美しく高貴な人って馬鹿にした言い方が同じだったからわかったんだ」
 そのイジメの首謀者と塾が同じだった女子が、今朝夏生を取り囲んだ有象無象の中にもいたらしい。
「同じだったって?」夏生が険しい顔で訊く。
「あのさ、先に言っとくけど、木内さんに責任はないからね」
 松木の前置きに夏生は息を呑んだ。
 慎司はできるだけ落ち着いた口調を心がけながら先週の出来事を夏生に告げる。
「木内さんが休んでいる間に委員決めがあったんだ。まず最初に学級委員を決めることになって、女子の誰かが木内さんの名前を挙げた」
「新入生代表だからって言い訳してたけど、休んでいるヤツに押し付けようって気満々だったよなあ、あれは」
 慎司の説明に松木が思い出すように補足する。
「それに控えめに反対したのが四十万さん。そしたら『さすが美しく高貴な人はお優しいこと』みたいなことを女子の誰かが嫌味っぽく言ったんだ。その途端、四十万さんは真っ青になって下を向いてしまった」
「でも私、生徒会に入ってるから学級委員にはなれないはずだよ?」夏生が理解しかねる顔で言う。
「木内さんが生徒会に入ってるってこと、僕も今日初めて知ったから、みんなも知らなかったんだと思う」
「そっか」と夏生が気落ちしたように返した。
「委員決めが始まったとき、担任が入会届を職員室に忘れたとか言って教室から出て行ったんだ。それもあって四十万さんに対する嫌味が出たんだと思う」
「高校にまで中学のイジメを持ち込むなってんだよ」松木が吐き捨てた。
「担任が戻ってきて、結局別の人が学級委員になったんだけど、女子の雰囲気がそれで変わった」
 夏生も松木もやり場のない怒りを持て余しているようだった。慎司もその気持ちは同じだ。同じだが、何もしなかった自分に対する後ろめたさもその怒りの中に混じる。
「四十万さん、それでも何日か登校してたんだけど、何かあるたびに『美しく高貴な人』って嫌味言われてて。で、何日か前から休んだまんま」
「庇ってくれたんだ」
 慎司はそう呟いた夏生から静かな怒りを感じた。
「きっと四十万さんは誰に対しても同じことを言ったと思う。だから、木内さんのせいとかじゃないと思うよ」
「わかってる。四十万さんならそうだろうなって思う」
「ねえ、なんで木内さんは四十万さん知ってんの? 同中じゃないよね」
 松木の疑問は慎司も感じていたことだ。
「入学式の日、困ってるところを助けてくれて。四十万さんって、なんかもう見習いたいくらいすごく上品で、そのまま一緒にクラス発表見に行ったら、同じクラスだってわかって、どうしても友達になりたくて……」
 畳の上にきちんと正座している夏生の声が微かに震えた。
「名簿に書いてあった美貴って名前がすごく四十万さんに似合ってて、いい名前だねって言ったら、びっくりしてたけど嬉しそうだったのに……」
「あー……自分でも気に入ってる名前だったら、あんなふうにからかわれるのはキツいだろうな」
 シングルベッドに座る松木が天井を見上げながら顔をしかめる。松木にも覚えがあるのかどこか悔しそうだった。
「正直、女子のあの言い方はかなり悪意あったよ」
 松木のベッドに背を預けて座る慎司も、あの時の粘り着くような声を思い出すと嫌な気分になる。
「四十万さんさ、わざわざS高を受験したんだと思う」松木がやるせなげに言った。「彼女の家、たぶんS区じゃないよ。中学の知り合いのいない高校に来たのに、まさか塾でクズどもが繋がってるとは思わなかったんだろうな」
「なんでイジメられたのかな。四十万さん、イジメられるようなタイプには見えなかったけど……」
「あー、それ、たぶん男がらみの嫉妬だよ。なんか、誰かの好きになった男が四十万さんがいいって言ってたとか言ってなかったとかで、こう、ぐちゃぐちゃ」
 松木が二本の腕をぐにぐにと器用に絡める。その柔軟さに慎司は少しだけ驚いた。タコみたいだ。
「それだけ?」
 夏生の責めるような口調に松木は軽く目を見張っている。
「それだけって、女子にとってはそういうのって最重要なんじゃないの?」
「全く。誰が誰を好きになるかなんて、そんなの他人がどうこうできるわけないのに」
 松木が慎司を見る。夏生の恋愛に対するスタンスがわかった。男同士でなんとなく意思の疎通を図る。



 その翌日から夏生は有象無象を作り笑いで黙殺した。それはもう潔いほどの作り笑いとシカトっぷりで、あからさまに夏生の悪口を言う女子たちがかえって滑稽に見えるほどだった。
「木内、あんま敵つくんなよ」
 いつの間にか松木は夏生の名字を呼び捨てていた。松木が夏生を呼び捨てするたびに、慎司は深呼吸したくなるような微かな息苦しさを覚えた。
「ああいう人たちと付き合ってると自分が下がる。私高校には勉強しに来てるの。悪口言い合うために来てるんじゃない」
 声を潜めつつもあまりにきっぱりと夏生が言うものだから、慎司も松木もその痛快さに声を上げて笑った。
 こんなふうに自分の考えをきっぱり言い切る同世代はこれまで慎司の周りにはいなかった。なんとなく言葉尻を曖昧に濁すことで他人任せにする。結局どっちなんだ? と聞き返したい思いを抱えながら、慎司自身もはっきりと答えを求めることなく流してきた。それでいてイエスかノーのどちらかを執拗に求められることも多く、曖昧のままでいいこととはっきりさせることの区別がどうにもつかず、もやもやすることが多々あった。
 夏生にはそれがない。自分はこう思う。そこで終わりだ。お前も同じ意見だろ、と暗に決めつけてくる下心がない。まるで夏生はたった一人で生きているように思えて、慎司は少し不安になった。
「木内ってさ、なんでそんな男らしいの」
「そういうのに男とか女とか関係ないでしょ」
 意外と几帳面な松木のノートを借りて、遅れた二週間分を取り戻そうとしている夏生は、昼休みも慎司たちと一緒だった。さすがと言うべきか、彼女にとって二週間の遅れなど取るに足らないことのようだ。まあ、最初の二週間なんてそれまでの復習という確認作業なのだから当然といえば当然だろう。

 毎朝松木を起こして一緒に登校する。ただそれだけのことなのに、いつの間にか三人の間には連帯感のようなものが芽生えていた。松木の寝起きは想像以上に悪かった。最悪と言ってもいい。遠慮は初日に掻き消えた。今や慎司も夏生も蹴り飛ばす勢いでどうにかこうにか起こしている。
 そんな三人に、慎司や松木の旧知の友人たちがその時々で加わり、そのうちそれぞれと同じ中学だった女子たちもちらほら加わり始め、夏生の交友関係はそれなりに広がりつつある。
 夏生は誰に対しても態度を変えることなく、どこかきっぱりと他人と自分を区別しているところがあり、なんとなく一緒にいるとほっと息を吐けるような落ち着きがあった。

 その一方で、四十万 美貴についてはなんの進展もなく、彼女が欠席し始めてひと月が経とうとしていた。
 夏生は美貴の連絡先を聞き出そうとしつこく担任に食い下がっているようだが、担任はのらりくらりと夏生を躱している。担任としては当然ともいえる行為だが、夏生はその度に悔しそうに顔を歪める。
 松木が知っているのはあくまでもイジメていた側なので、藪をつついてヘビを出しかねない。同じ中学の人間が周りにいないせいで完全にお手上げだった。
「顧問が個人情報を軽々しく教える教師じゃなくてよかったってことじゃん」
 二年の見辺が横から口を挟む。それに夏生は険のある目で睨み返した。
「盗み聞きとか、最悪なんですけど」
 夏生はなぜか見辺に厳しい。見辺はそれを面白がっている節があり、それがまた夏生を苛立たせている。
 放課後、生徒会室に集まって慎司たちは六月の終わりに開催される体育祭の準備をするための段取りの確認を行っている。準備のための段取りとはなんだと思うが、要するにこういうふうに準備してくださいとそれぞれに指導する手順の確認だ。
 念のため、生徒会の二年や三年に美貴と同じ中学の人間がいないか訊いてみたが、少なくとも彼らが知る範囲にはいないことがわかっている。
「うちなんて偏差値五十五程度の中途半端な高校なんだから、わざわざ時間や金かけて通う人間がいるわけないだろ」
 確かに見辺の言う通りだった。わざわざS高を目指してという生徒は少ない。家から近いという理由が圧倒的だ。美貴だってイジメさえなければ、家から近い高校に通っただろう。

「国会議員って個人情報調べられると思う?」
 その日の帰り道、松木の家に向かう最中で夏生は思い詰めたように慎司に訊いてきた。
「さすがにそれは無理なんじゃないかな。できるかもしれないけど、バレたらまずいことになる」
「なになに、国会議員に知り合いいんの?」
 松木は何気にミーハーだ。ひと通りの流行は抑えているので、疎い慎司などは松木から間接的に知ることが多い。
「知り合いの知り合い」
「あーそれって、実は知らない人ってことだろ」
 夏生が事実を混ぜ込んでさらっと誤魔化すと、松木が残念そうに文句を言う。慎司も知らぬ顔で通すことにする。情報通の松木の知らないことを知っているという小さな優越感が慎司の胸にじわりと滲んだ。

 夏生はどうやら宇都見を頼ることに決めたらしい。しかめっ面を見る限り本意ではないのだろう。
「菜乃佳さんたちに相談してみる」
 そう誰に言うともなく夏生が呟いた。
 それを聞いて慎司はどこかでほっとしていた。夏生も一人で生きているわけじゃない。そう思えた。