硲153番地
メリーゴーラウンド
矢部


 前方から自転車の二人連れがやって来た。一人は今注目の若手議員、宇都見 義直。もう一人は彼の第一秘書である内藤 正臣(ないとう まさみ)。二人の乗った自転車が安物のママチャリなあたり、なんともいえないあざとさがちらつく。矢部 正樹(やべ まさき)の知る宇都見とは結びつかない小賢しさに、第二秘書の入れ知恵だろうと当たりをつける。

 人と車を隔てる四角四面に刈られたツツジの生け垣。そのつぼみが大きく膨らみ、今にも花開こうとしている。子供の頃に吸った蜜のささやかな甘さが矢部の舌の先に蘇る。中には毒を持つ種類もあると聞いて肝を冷やしたのは大人になってからだ。
 子供の頃は種類など見分けることもなく、誰かが丹精込めて咲かせた花であることも、化学肥料が撒かれている可能性も想像できず、ただ青い空に眩しく咲く花を無邪気に摘んでは蜜を吸っていた。
 太陽の下ではあれほど鮮やか見える紅紫も、LEDの街路灯の下では褪めた素っ気なさが際立つ。

「宇都見さーん、いい加減教えてくださいよ。CLⅢって一体どこのことなんですかあ」
 店の脇に自転車を停めている宇都見に矢部はすかさず声をかける。ここ最近の矢部の常套句に宇都見は表情を動かすことなく、目の前を足早に通り過ぎようとする。
「宇都見さーん、俺、今回ばかりは結構マジなんですよねえ」そこで矢部はぐっと声を抑えた。「晦冥光(かいめいこう)っていう宗教団体、知ってます? 大晦日のつごもりに冥王星のめい、それにひかりって書くんですけど……」
 そこでふと宇都見の足が止まった。どこぞの書道家が書いたのだろう「源七」という墨筆の看板を照らし出すスポットライトに、宇都見の胸元にある議員バッチが鈍く光を反射した。
 宇都見は怪訝そうな顔でまじまじと矢部を見つめた。矢部も負けじと真面目な顔で宇都見の訝しげな視線を正面から受けた。
「宗教団体?」と宇都見が低く呟く。声に不審が滲んでいる。
「そう、宗教団体。新興の。若い子やその親を中心にじわじわ広がっているんですよ」
 険しい表情の宇都見が周囲を見渡した。彼の秘書も同じように周囲を見渡している。宇都見がよく食事に来る居酒屋の前で張っていた矢部はチャンスとばかりにポケットから名刺を取り出し、宇都見の胸ポケットに押し込んだ。
「それがCLⅢとどう繋がるんですか?」
「それがわからないから訊いてるんですよ。宇都見さんならなんか知ってるかなーって。なんか繋がりそうで繋がらないんですよ。S区にある月門神社って知ってますよね。月の門って書いてあわいって読むらしいんですけど」
「地元ですからね」
 そりゃそうだよな、と小さく口に出しながら矢部は何度か頷いた。
「どうやらそこから派生したってことになってるらしいんですけど、調べても調べても繋がらないんですよ。そもそも月門神社について知ってる人が少なくて。直接取材に行ったら、社務所の人間は晦冥光なんて知らない、初めて聞いたって言うし……」
「本当に知らないんじゃないですか?」
「そんな感じなんですよねえ。でも晦冥光では月門神社との繋がりをはっきり明言はしないんですけど、なんっていうかこう、いやらしい感じで臭わせているんですよ」
 矢部の話を聞いた宇都見は深く考え込んでいる。
「そもそも月門神社って何なんですか? 調べたら国会議員の実に七割以上が年に一度は参拝に訪れているんですよ」
 これには宇都見も驚きからか僅かに目を見張った。矢部は得たりとばかりに続けようとしたところで、横から内藤が腕時計をこれ見よがしに宇都見に見せる。スマートウォッチだ。あまり時間がないと言いたいらしい。口で言え、と言いたいのを矢部はぐっと呑み込み、宇都見の胸ポケットを指差す。
「もし興味があったらこの件に関してはそっちに連絡ください」
 宇都見がポケットから出した簡素なカードは、肩書きも社名もない、矢部の氏名と連絡先だけのプライベート用の名刺だ。
「記者としてじゃないんですね」
「記者としてですけど、今のところ社を通すつもりはありません。あくまでも個人的な興味。記事にするかはまた別の話」
 矢部は大手新聞社の社会部と契約しているジャーナリストの端くれだ。宇都見は大学の後輩。とはいえ矢部はOBとして宇都見と出会っているので年は十ほど離れている。元々それなりに親しかったことから、現在は宇都見の番記者を自称している。

 店の常連客らしき男たちが同じく常連の宇都見に軽く手を上げ挨拶を交わしながら一足先に店に入っていった。
「これから飯なんですけど……」
「おっ、付き合うよ。俺もまだなんだ」と矢部は口調も相好も崩した。「で? 宇都見のおごり?」
「そんなわけないでしょう。知り合いだからって余計なことは言いませんよ」
 むすっとした表情を作りながらも、宇都見は柔軟に笑った。
「当たり前だろ。ある程度は自分で調べるよ」
 ころっと態度を変えた二人は、丈が長く黒いというだけで妙に洒落て見える縄のれんをくぐった。その後ろを秘書の内藤が周囲を警戒しながら続く。

「で、さっきの、なんでしたっけ、宗教団体」
 やたらと旨いしょうが焼き定食をやけに上品な仕草で口に運びながら、宇都見は思い出したように訊いてきた。
 店内はほどよくざわつき、耳に障らない音量で流れているジャズピアノがそれぞれの会話を曖昧にぼかしている。
「晦冥光な。うちの姉貴がひっかかってんだよ。で、調べていくうちになんか胡散臭いなーってんで、本格的に情報集めていくうちに月門神社が浮かんできて、さらに調べていくと国会議員だけじゃなく、警察関係やら財界やら、まあ各界のトップどもがこぞってその神社に参拝してることがわかったんだよ」
 今回は目の前の宇都見に動揺はない。ふーん、とでも言いたそうな顔でとん汁に口をつけている。
「内藤さん、あとでその宗教団体調べてもらえますか」
 黙って頷くこの秘書は、実は様々な大物議員の秘書を歴任してきた実力者だ。が、いかんせん人間関係の構築が不得手なのか、実力はあるのに一つところで長く続かないクセのある秘書だ。宇都見とはうまくやっているようで、今のところクビになる気配はない。
「矢部さん、こう見えて今結構忙しいんですよ」

 宇都見は今、まずは自分の地元であるS区から子供の貧困と虐待をなくそうと動き始めた。各所に頭を下げ、根回しをしながら様々な協力を取り付けている。一介の、しかも新人議員の手には余るだろうことを誰よりも自覚しているのは宇都見自身だろう。それでも、口では嘆きながら実際には動こうとしないヤツらよりはマシだと矢部は考える。あくまでも正攻法を貫く宇都見を影で嘲笑する議員もいる。
 先日、またもや子供の虐待死が報道された。
 政府は重い腰を上げたばかりだ。急務と言いつつ相変わらず動きは鈍い。そうしている間にも子供たちは犠牲になっている。
 少子高齢化が問題だと言いながら、なぜ、大切な子供たちを、早急に、一人でも多く……。
 怒りを露わにした宇都見の様子がテレビ報道された。続く言葉はなんだったのか。助けないのか、守らないのか、救わないのか。おそらく感情が先立ち言葉にならなかったのだろう。
 何も特別なことを言ったわけじゃない。宇都見が呑み込んだ言葉の先は、誰もが感じていることだ。だが矢部は純粋に感動した。政治家特有のパフォーマンスではない本気の怒りが画面越しに伝わってきた。悔しさに打ち震える一人の青年の姿に心を動かされたのは矢部だけではなかったはずだ。ただ、それすらも若さを理由に嘲る者がいるのだから腐っている。若いからこそ、ここまで憤れるというのに。
 宇都見には、こいつならなんとかしてくれるんじゃないか、と思わせる何かがある。少なくとも矢部はそう思うからこそ、宇都見の番記者を公言している。確かにまだ若い。経験もない。それでもなお、久しく現れなかった本物の政治家の風格が宇都見の背後に立ち昇るのだ。

「わかってるよ。手が空くまで待つから」
「いえ、そうじゃなくて。私とではなく内藤さんと直接やりとりしてもらえますか? 内藤さん、会期中は逆に時々暇を持て余しているので」
「は? 一応政策秘書でもあるんだろう?」
「内藤さん優秀ですから。一言えば十理解してくれるうえに仕事も早いので。まあ、政党関係のあれこれがないだけ余裕があるんですよ」
 ふと見た内藤の口角が僅かに上がっていた。もっさりしたおっさんくさい外見の、こう言ってはなんだがオタク気質が垣間見える内藤は、殆ど表情を動かさないうえに、絶対に人と目を合わさない。おまけに滅多に口を利かない。はっきり言って議員秘書としては最悪だ。いくら優秀とはいえ、なぜ宇都見が内藤を第一秘書にしたのか矢部は今以て首を傾げている。第二秘書の方が愛想がよくそつなくなんでもこなす印象がある。
 その内藤からすっと差し出された羨ましくなるほど分厚い活版刷りの名刺には、氏名よりメールアドレスの方が若干大きく書かれていた。一体どういう主張なのかと矢部は呆れながら受け取った。



 その内藤の有能さに矢部は舌を巻いた。
 まず、翌朝には矢部が調べた表向きの情報が全て揃っていた。矢部がひと月以上かけて集めた情報がたった数時間で揃えられている。中には矢部もまだ知らなかったものや矢部が調べたよりも子細な情報もあり、添付ファイルを確認しながら矢部は自ずと唸っていた。
 おまけに矢部の姉が団体から買った壺や御札、お守りやお布施にいくら支払ったかが日時を添え全て記載されていた。総額にして約五十三万円。百円ショップに売ってそうな真っ黒な花瓶がなんと三十万プラス消費税というぼったくりも甚だしい金額に矢部は目を剥いた。
 そしてだ、メールの最後には『近々抹消』という殺人予告めいた文言まであり、最後の最後に『手出し無用』のひと言まであった。
「怖っ」

 さらに、午後二時を過ぎた頃、再び内藤から教主および主要幹部の個人情報が送られてきた。内藤の情報収集能力の高さに矢部は空恐ろしくなった。特に教主の経歴の細かさには背筋が凍えた。どうやって短時間でこれだけの情報を手に入れたのか。
 晦冥光の教祖である、鬼柳院 都華咲(きりゅういん つかさ)という派手な名前で活動する女の本名は、鈴木 幸子というありふれたものだ。地方大学を卒業後、定職に就かず二十代中半で占い師となる。その数年後には詐欺罪で逮捕されたものの不起訴となり、各地を転々としながら上京。さらに数年後に同じく詐欺罪で一年ほど服役している。刑期を終えると、今度はインターネット上にバーチャル宗教を設立し、主に引きこもりや不登校児、その親を中心にインターネット上でじわじわと活動を広げていく。
 そのホームページには教団のシンボルマークでもある紋のような丸に縦一つ引きがでかでかと表示されている。形は違うもののハーケンクロイツを連想させる色使いがなんともチープだ。宗教団体というよりはサークルの延長のような幼稚さが矢部の目にはかえって不気味に映る。
「うそだろ、おい」
 スクロールしていくと、集団自殺の指導および斡旋、という文字が矢部の目に飛び込んできた。数年前から、冬至と夏至に自殺志願者を募っているという。
 矢部の脳裡に姪の姿が浮かぶ。娘が学校に行きたがらないと最初に姉から相談されたのはもう二年以上も前のことだ。
 HP上では「別次元への跳躍」と書かれている。「精神体が別の次元に行く」という馬鹿馬鹿しい誘い文句に、未熟な子供たちは憑かれたように引き寄せられるらしい。彼らの行き着く先は矢部の予想通り児童売春だ。その顧客から月門神社のことを聞き出し、さも関連があるかのような口ぶりで顧客を集めている。
「つまり顧客の中には……」
 月門神社に参拝している小物がいると言うことだ。間違いなく小物だろう。大物は決してこういうわけのわからない輩とは交わらない。
 KMKと略される晦冥光は、宗教舎弟といわれるような暴力団との繋がりはない。その代わりといっていいのか、半グレに毛が生えたような集団と手を組んでいる。この時点で放っておいてもいずれ淘汰されることがわかる。表には表のルールがあるように、裏には裏のルールがある。真っ当な宗教団体ならば暴力団とも半グレとも縁はない。

 その日の夕方、契約社のデスクともいえないような長机の一角で、内藤から送られてきたばかりのファイルを開いた矢部は今度こそ叫んだ。周りから不審と迷惑そうな視線が向けられるが気にしてはいられなかった。
 すぐさま送られてきた数枚の画像をプリントアウトし、部内を見渡し、早足に担当編集者をつかまえる。画像を目にした男は目を剥き、すぐさま矢部を従えて編集長のもとに向かう。部のトップもこれには唸った。すぐさま様々な指示が飛び交い、矢部がもたらしたスクープに部内は活気付いた。
 中堅議員の児童買春。
 地方だからと気を抜いたのか、自身が滞在するホテルの部屋に少女を引き込んでいる連続写真は、ホテルの監視カメラによるものだろう。さすがにこの写真はホテル側に迷惑がかかるため表には出せない。だが、明らかに室内で撮られた写真は少女の手による隠し撮りだろう。
 内藤はどうやってこれを手に入れたのか。矢部自身それを問われても「とある筋からのリークです」としか答えられない。どれだけ問い詰められても答えられないものは答えられない。

 わずか一日足らずの出来事だった。

 その後、矢部は社の上層部に呼び出された。
 会議室というよりはお偉いさんの密会部屋といいたくなるような奥まった場所にある八畳ほどの一室には、十人掛けのやたら重そうな円卓だけが中央に鎮座していた。壁には何も掛かっておらず、開口部は入ってきたドアと天井に近い位置にある排煙窓だけだ。どちらもぴっちり閉められている。
 蛍光灯が古いのか、全てが点灯している割に部屋は薄暗い。居心地の悪さはそのせいだけではないだろう。矢部は警戒値を最大まで引き上げた。
 一番入り口に近い席に着いた矢部は、どうしてこの情報に行き着いたかを尋問された。恥ずかしながら、ともっともらしい表情をつくり、姉への心配から晦冥光を探っていくうちに出てきたものだと説明する。事実でもある。
 ふと思い付いて矢部は月門神社の名前を出してみた。その瞬間、上層部の顔色が見事に変わった。それはそうだろう、と矢部は内心でほくそ笑む。彼らも参拝に訪れていることを矢部は掴んでいる。
「そういえば君は、宇都見議員の番記者を自称しているとか」
「ええまあ。以前からの知り合いなもので」
 調べればわかることは素直に答える。
 宇都見に関してもっと突っ込んだことを訊いてくるかと思いきや、たったそれだけで彼らは引き下がった。
「矢部君は、うちとは専属契約だったかな」
 初対面の代表取締役社長の威厳ある声に媚びが潜んでいた。矢部は顔が引き攣りそうになるのをなんとか堪える。大手新聞社のトップが取るに足らない一介の記者に媚びる様は、矢部に悪寒を走らせる。
 室内をほの白く照らす蛍光灯のフリッカーがやけに気になった。
 これ以上は手に負えない。いや、負いたくない。矢部は引き際を悟った。
「いえ。年契約です」
「専属になる気はないか?」
 遠くから見かけるだけだった編成局長の目が今や異様に血走っていた。
 何が彼らをそこまでさせるのか。宇都見か。その傍らに立つ内藤か。それとも、口の軽い議員が洩らした、宇都見が招待されたというエリアCLⅢか。



 翌日の朝刊は世間を大いに賑わせた。
 一夜にして矢部の名が業界内に知れ渡った。矢部に別の記者が張り付いている。
 警視庁からも任意での聴取を受けた。警察はすでにあの写真を入手しており、話をした刑事が「そうか、君に渡ったのか」と意味深な呟きを漏らした。一体内藤はどこと繋がっているのか。矢部の聞き出したい欲求を相手の刑事は不気味な笑顔で遮った。
 矢部は身動きが取れずにいる。
 宇都見に訊きたいことが山とあるにもかかわらず、矢部に張り付いた記者に彼の存在をちらつかせるのも癪で、おまけに宇都見が口を割らないだろうことはこれまでの付き合いでわかりすぎるほどわかっている。
 自嘲しながら自重する。頭に浮かんだオヤジギャグがなぜかツボにはまり、矢部は虚しくも腹を抱えて笑った。
 内藤にお礼のメールを送る際、なぜ情報をくれたのかを万が一を考え湾曲に訊ねた。
 返信は、「矢部さんはまだ悪に染まっていませんから」という、一体どこ目線なのかと思うようなひと言で済まされた。
 どういうことかと今度は宇都見にメールを送った。
 返信は、「内藤さんは影のボスポジを手に入れたいそうです」という、これまたふざけているのかと思うような意味不明なひと言だった。
 隠語、もしくは何かの暗号だろうか。矢部はしばらく検索に没頭しながら頭を悩ませていた。