硲153番地
サンクチュアリ結び目①
「あ、夏生ちゃん、久しぶり」
暢気な桜の声に夏生は脱力した。ようやく会えた安堵なのか、それとも人の気も知らずにこにこ笑っている桜への苛立ちなのか、夏生自身も理解しがたい複雑な感情が胸に渦巻いた。
二月最後の週末、夏生は朝から丁寧に部屋の掃除をしていた。ここ数日続いた冷たい雨が止み、開け放たれた窓の外には濃いピンクの梅が微風にそよいでいる。
普段は備え付けの金庫に入れてあるものも全て出し、窓枠に並べて日の光にあてる。心なしか気持ちよさそうに見えて、夏生は自己満足に浸りながら懸命に手を動かし部屋中のホコリを拭き取った。
宿坊には何台もの業務用の洗濯機が宿泊者たちに解放されている。コインランドリーと同じ要領で使用でき、二十キロの大容量で洗濯から乾燥まで行って料金は百円という儲け度外視の金額に、さすが宿坊だと夏生は感心していた。夏生の知るコインランドリーではこれより一つ小さなサイズで洗うだけでも五百円かかる。おまけにアイロンは無料だ。学校でしか使ったことのなかったアイロンを使い、夏生はあらゆるものをシワひとつなく整えた。
夏生は週に一度、シーツやその他諸々をまとめて一度の洗濯で済ませている。シーツ類は宿坊からの借り物なのでもう少しマメに洗濯すべきところだが、夏生の懐事情では週に一度が精一杯だ。下着類などはお風呂に入るついでに手洗いしている。それを美智代などがやけに褒めるものだから夏生は複雑な思いを抱えていた。
そろそろ終わる頃合いだろうと洗濯室に向かう途中で、桜が来ていると宿坊の人に声をかけられたのだ。
夏生が慌てて玄関に駆けつけると、ロビーには暢気に手を振る桜がいた。先日買った白のカーディガンが桜によく似合っていた。偶然というか、それしかないというか、夏生も桜に買ってもらったミントグリーンのカーディガンを着ている。それに桜が目を細め、「似合ってるね」と笑った。
「何度もお礼に行こうとしたんだけど……」
「あ、たどり着けなかった? そっか。ごめんね。あ、そうだ、これこれ」
ごそごそと肩掛けのトートバッグの中を探って桜が取り出したのは、淡いピンクが綺麗なスマートフォンだった。
「これを渡そうと思って」
「私に?」
「そう、ないと不便でしょ? 私すっごく不便だったから」
あまりに実感のこもった桜の「すっごく不便」に、夏生の中に少なからずある卑屈さが身を潜め、素直に受け取ることができた。
「基本的な設定はシュウさんがしてくれたの。夏生ちゃん、使い方わかる? 私なんてまだわからないことばっかりで。あ、シュウさん」
そこに秀と巧が難しい顔で話ながらやって来た。秀に気を取られた桜の覚束ない手元から、夏生は充電ケーブルも受け取った。
「ああ、夏生ちゃん。桜がお世話になっています」
にこやかに笑いながら秀に挨拶された夏生は、慌てて「私の方がお世話になっているんです」と頭を下げた。
不思議なことに、つい最近まであったはずの秀に対する憧れのような恋心が綺麗さっぱりなくなっていた。ついこの間までは桜のことを秀の結婚相手だと思っていたにもかかわらず、今や秀の方が桜の結婚相手としか思えない。いつの間にか秀よりも桜の方を身近に感じていることに、夏生はこれまた複雑な気持ちになった。
「夏生ちゃん、使い方わからなかったら、えーっとね、メッセージ送るのどれだっけ」
夏生の手の中にあるスマホを触りながら桜が首を傾げる。
「これ。一応桜の番号とID、あとは念のため俺とコウの番号とIDも入れてあるから」
桜の後ろにぴったりと張り付くように秀がスマホをのぞき込む。秋に二人揃ったところを見たときよりも夫婦感が増していて、夏生は目のやり場に困った。つい視線を彷徨わせると、秀の背後ではそんな夏生の心境を察した巧が目を細めて笑っており、夏生は気恥ずかしさから頬に熱が集まるのを感じた。
「あとね、菜乃佳も夏生ちゃんの番号教えてほしいって。また遊ぼうねって」
桜の声に意識を引き戻された夏生は一歩後ろに下がって頭を深々と下げた。
夏生はここにきてわかったことがある。あの日桜が「大丈夫」と言ってくれたから、桜がここに連れてきてくれたから、桜が笑っていたから、今の夏生がある。それは紛れもない事実だ。そこを認めないと夏生は前に進めない。
「色々ありがとうございます」
「いいのいいの。支援、だから」
支援という言葉を少し誇らしげに桜が言った。
「支援?」
顔を上げた夏生に桜はあの日と同じようににこにこ笑いかけた。
「そう、元々はシュウさんとコウさんがやっていることだから。ごめんね、説明が後回しになっていて」
驚く夏生に秀が面映ゆそうに笑う。
「夏生ちゃんが中学を卒業したら、改めて説明に来るよ」
そう秀に言われ、夏生は「わかりました」と答えた。巧からは「それまでになんかあったら遠慮無く連絡してこいよ」とも言われ、再度「わかりました」と夏生は答えた。
そこにそよかぜ園の園長が顔を出した。そよかぜ園の園長は、男子には「施設長」と呼ばれ、女子には「園長」と呼ばれている。夏生は最初の頃などそれぞれ違う人の話をしているのかと思っていた。
何事かと訝しむ夏生の背後には、先程からずっと宿坊の人が控えている。ここに来たときに最初に夏生に声をかけてくれた男の人だ。
場違いな雰囲気を感じて夏生はひとまず後ろに下がる。
彼らはロビーで挨拶を交わし合い、プライベートの立て札のある廊下へと入っていく。桜が慌てたように夏生のところに駆け戻ってきた。
「夏生ちゃん、これ、入ってた箱とイヤホン」
慌てた仕草にもかかわらず、桜の口調は相変わらずのんびり聞こえる。鞄の中から渡されたのは思ったよりも小さな箱だ。押し付けられるように受け取った夏生は、桜の口調は何かに似ているなとぼんやり思った。語尾がだらしなく伸びるわけでもないのに、ゆっくりめに話すのは、そうだ、皇室の人たちの話し方と似ている、と夏生が妙なところで感心している間に桜は先を行く秀を追いかけていった。
またしてもちゃんとしたお礼を言いそびれたことに夏生は自分の部屋に戻ってから気付いた。
部屋に戻り、洗濯物をたたみながら夏生はどこかうっとりした気持ちでローテーブルの上に置かれているスマホを眺めた。角の丸まったフォルムはひんやりとしてどこもかしこも滑らかだった。思ったよりも重量感があり、その重みが自分のものかと思うと夏生の頬はゆるむ。
正しくは借り物だ。桜から貸し与えられたものだが、桜の雰囲気はこれを夏生の物だといっていた。使用料がどのくらいになるのかわからない。あとで調べてなるべく料金が掛からないようにしようと、指先を滑らせながら考える。
自分のスマホなど、今の夏生が持てると思わなかった。持つとすればもっとずっと先のことだと思っていた。クラスの大半がスマホを持っている。持っていない子の方が少ない。満足な友だち付き合いのない夏生ですら欲しくてたまらなかったものがまた一つ、桜から与えられた。
「なっつおー、いるー?」
なんのために部屋の入り口に呼び鈴が付いていると思っているのか。部屋の外から大声で名前を呼ばれた夏生はむすっとしながら入り口の扉を開けようとしたところで、ピン、ポーン、とワンテンポ間の抜けた音が鳴った。今更鳴らす歩に夏生は一層むっとした。
「大声で名前呼ばないでくださいよ」
「あ、ごめんごめん」
扉を開けると美智代の孫娘が口では謝りながらも悪びれる様子もなくにたにた笑っていた。
「ねえねえ、指定ジャージもいる?」
そう言いながら歩は夏生の脇をすり抜けて夏生の許可なく部屋に入ってくる。夏生は溜息を吐きながら部屋のドアを閉めた。歩はぐるっと部屋の中を見渡して、「おばあちゃんの部屋と同じだね」と少し残念そうに言った。
「くれるんですか?」
「ただちょっと大きいと思う」
小さなローテーブルの脇に座った歩は、ど派手な柄のショッパーの中からビニールに入った深緑のジャージを次々取り出した。
「多少大きくても平気です」
「そう言うと思った」と歩はにたりと笑った。「生徒会室の大掃除してたら、なぜか新品のジャージが三着見付かって、なんであるのかわからなくて、証拠隠滅のために持ってきた。ただ、ちょっと臭い」
実際にビニール袋に入ったジャージは石油臭のような鼻につく匂いがした。
「洗ったら匂い取れるかな」
「何回か洗えば取れそうじゃない?」
「三着とも?」
「三着とも。何故かM、L、LLなんだよね。ジャージって男女兼用だから女子は大抵Sなんだよ」
匂いに顔をしかめながらとりあえずMサイズを広げてみる。確かに夏生にはワンサイズ大きい。
「これ、LとLLは他の人にあげないんですか?」
「話が広がるとマズいから。夏生は口堅いでしょ」
出会ったばかりの歩が夏生の何をもって口が堅いと決めつけたのか。つい意地悪な気持ちで夏生が「どうでしょう」と真顔で言えば、歩が慌てた。
「ちょ、言わないでよ」
「LとLLは部屋着にしてもいいですか?」
「えー、これが部屋着はちょっとどうかと思う」
そう言いながら部屋を再度ぐるっと見渡した歩の視線が一点で止まり、驚いたように目を見開いた。
夏生が、しまった、と思ったときには遅かった。窓枠に置かれた真っ白な陶器に歩の目が釘付けられている。
「それって、もしかして……」
「誰にも言わないでください!」
夏生は必死の思いで頼み込んだ。歩の膝頭に向かい手をついて頭を下げる。
「言わないよ。おばあちゃんにも言わない。安心して」
顔を上げた夏生に、痛ましげな表情を浮かべていた歩は安心させようとしてか下手くそな作り笑いを浮かべた。
「お墓に入れないの?」
「入れるお墓がないんです。調べたら永代供養の金額がすごくて」
「お母さんの実家とかは?」
「私、お母さん以外の、血縁者? を知らないんです」
「お母さんは、何も言わないの?」
目を伏せ黙り込んだ夏生に、歩は息を呑み「ごめん」と謝った。
「いつか必ず私がお墓に入れます」
夏生の絞り出すような声に、歩は再度「ごめん」と謝った。
「ねえ、思ったんだけど、お墓に入れなきゃダメなの?」
思案顔の歩に夏生は首を傾げた。
「お墓に入れないとダメなんじゃないんですか?」
「ダメじゃないと思う。ほら、海が好きだった人は海にまいたりするでしょ」
ああ、と言ったまま夏生は思い付かなかった自分に呆れた。そうだ、散骨。小さく呟いた夏生に歩も頷く。
「どこにでもまいていいって訳じゃないみたいで許可は必要なんだよ。で、うちはお祖父ちゃんが散骨だったんだよね。パイロットだったから空から海にまいたの」
そんなこともできるのかと夏生は目から鱗が落ちる思いだった。と同時に、これが誰か歩は知っているような気がした。
「どうして知ってるんですか?」
新聞にも載らなかったことをなぜ歩が知っているのか、夏生は不審に思う。
「この間話した、夏生と同じような立場の子が夏生のこと知ってたの。保護施設で夏生を見かけたって」
「誰だろう」
「夏生は知らないはずだって言ってた。見辺 雅王って知ってる?」
「がおう?」
「そう、雅な王様って書いてがおう。本人は物凄く嫌がってる名前」
夏生は夏に生まれたという記号的な名前だ。弟は秋に生まれたから秋生。学校で名前の意味を親に聞いてくる宿題が出たときに母親に訊いたら、一切の思い入れはない、とせせら笑っていた。たとえどんな名前でも、そこに思いが込められていれば素敵な名前になると夏生は思う。思いを込められなかった名前はただの記号でしかない。
それでも夏生は、幼い頃「なっちゃん」と呼ばれていたことを覚えている。抱きしめられたことも、頬ずりされたことも覚えている。母親の変化は秋生がお腹にいる頃から始まった。
「一度聞いたら忘れない名前なのに知らないってことは知らないんだと思います」
「だよね。まあ、本人も名乗るときは王を取って、まさ、って呼び方変えているみたいだけど」
「見辺 マサ……あ、それは聞いたことがあるかも。ちょっと斜に構えた感じの」
「そうそう、そいつ。その魔王は再来年、生徒会長だから」
「そうなんですか?」魔王? と小さく漏らしながら夏生が訊く。
「そう。一年で書記に任命されると、大抵三年になったときには会長か副会長にされるんだよ。私も一年の時は書記だった。ちなみに夏生も書記に決定してる」
「はあ? 選挙とかないんですか?」
「これがないんだよねえ。うちの高校の生徒会役員は指名制なんだよ。ちなみに夏生、新入生代表の挨拶もさせられるから」
「なんで?」
「入試の成績一番だったから。ちなみに私の代は会長が代表だったんだよね。致命的な悪筆で書記は無理ってことで私にお鉢が回ってきたんだけど。S高の生徒会報っていまどき手書きなんだよ」
よ、未来の生徒会長、という歩のからかいに、夏生は精一杯の嫌悪を全身で示した。