あおにとける
第一章 固体06
「あの、一応これ」
買い物から戻ると、彼女が差し出してきたのは生徒手帳だった。
発行は昨年度。一年以上持ち歩いていたなりの使用感は本物で、少なくともこれが発行された時点での彼女は周囲に認知されていたということになる。
「お世話になります」
軽く頭を下げる今の彼女よりも幼さの欠片を残した証明写真。真っ直ぐに前を向くどんぐり眼にはひと握りの純真さも見える。丹由 青。生年月日からすると現在十七歳。住所はこのビルから徒歩十分ほどの住宅街。
によし あお。あお によし。
「奈良?」
ふと須臾が呟くと、丹由 青は軽く目を伏せると薄く嗤った。それは、口元を歪めたなどという生易しいものではなく、明確な嘲笑だった。
これまでの彼女からは想像もできない薄笑いが一瞬にして彼女を別の存在に仕立てていた。
須臾は打ちのめされたかのようにはっきりと悟った。目の前の存在は幻覚などではない、一人の人間だ、と。
生徒手帳の存在以上に彼女の生々しい感情の方が雄弁だった。
「関係ないみたいです。丹由姓は割と珍しいみたいなんですけど、父の実家もこの辺です。元々どこにルーツがあるのかは知りません。親戚が奈良や関西にいるって話も聞いたことありません」
彼女の声には突き放すような響きがあった。
「単に面白がって付けたんじゃないかって、今は思いますけどね」
今は、ということは、以前はそう思っていなかったというか。須臾は彼女の話をどう受け止めていいかわからなかった。
答える代わりに須臾も身分証を提示する。
「小型…船舶? 操縦…免許証? え、これって船の運転ができるってことですか?」
一瞬手元から顔を上げた青に直前まであった冷笑の影はない。目を見開いた彼女は再び須臾の免許証に視線を落とし、今度は目を細めて眉を寄せた。
「んー……? 名前、なんて読むんですか? ぼうば、すうすと?」
氏名欄に表示されているのは、榛葉 須臼人だ。その下部にあるローマ字表記に気付いた青が「しば、しゅゆ?」と眉根を寄せ首を傾げた。
須臾を名付けたのは父だ。
父が中学生の頃、世界史の教師から「インド神話にシヴァという神がいる」と聞かされた父は榛葉のルビをシヴァと改め、同じ頃に古代インドでは一日を三十須臾と定めていたとこれまたどこかで聞きかじり、さらに古代の中国あたりでは須臾はほんの僅かを表す単位であることを知ると、「須臾」は猛烈にかっこいい言葉として父の中にインプットされたらしい。
生まれたばかりの我が子を腕に抱いた瞬間、それまですっかり忘れていたその言葉が神のお告げのように頭に浮かんだのだ、と父はことあるごとに恥ずかしげもなく語っていた。
すわ出生届と役場に駆けつけた父は、届け出用紙に須臾と記入して提出したところ、役場の人間に「須」は常用漢字だが「臾」は人名用漢字ではないことを理由に受理してもらえなかった。そこで父は咄嗟の思い付きで、臾を「臼」と「人」に分解して提出したのだ。息子の名前は須臾だと聞いていた母は、のちに戸籍上では「須臼人」であることを知り激怒したらしい。
そんなことを思い出しながら、須臾はメモ用紙を持ってきて「須」とその下に「臼」を書き、臼の上に「人」を重ねて書いた。
「ああ、本当は須臾って名前なのに」と彼女はメモ用紙を指差し、「何かの手違いで須臼人って届けられちゃったってこと?」と今度は免許証の氏名欄を指差した。
須臾はやたらと理解力のある青を見た。
「中学にもいたんです。お父さんの字が悲劇的に汚くて、戸籍上は違う名前になってるって子。でも普段は戸籍上じゃない本来正しかったはずの名前を名乗ってるんだって。十五歳になったら裁判所に届けるって話で……あーでも噂で聞いただけだから本当かどうかはわかりませんけど」
須臾も同じだ。名刺などは「須臾」表記だ。須臾の場合「臾」が人名漢字にならない限り変更はできないし、できたとしても変更する気はないが。
須臾が可動式のワードローブを青のために一つ空けると、青は早速買ってきた服をこれまた買ってきたばかりのハンガーに掛けて並べていった。
結局、ひとまず須臾は一週間分の着替えを選ばせ、支払いは須臾がした。青はしきりに「ちゃんとお金は持ってます」と言い張ったが、さすがにホームレス女子高生に支払わせるほど須臾も非道ではない。
最後には青も諦めたように「ありがとうございます」と頭を下げた。他にも部屋を用意したことや諸々用意した物に対して一つ一つ礼を言われ、須臾はなんとも気恥ずかしい思いをした。
────◇────
ウニキュロの二軒隣にあるインテリアショップで箸やご飯茶碗、マグカップ、スプーンとフォークなど青が散々悩んだ末にようやく選んだ食器を指差すと、その人は急かすことこそなかったものの待ちくたびれた感を隠すことなくショップカゴに素早く入れ、競歩かと思うほど素早くレジに向かい、すんなり一式買ってくれた。
ドラッグストアでは青が選んだ柔軟剤とおしゃれ着用洗剤、その他に化粧水や洗顔料など、やはり生活に必要な一式を買ってくれ、スーパーでは青が視線を止めた商品を片っ端からカゴに突っ込んでいった。悩む暇もなかった。
ベッドや枕など、事前に購入した物を合わせれば相当な金額になっているはずなのに、その人は当たり前のように支払ってくれた。青が何度お金を出そうとしても頑として受け取らない。男のプライドってヤツかもしれないと思い、青は素直に「ありがとうございます」を口にした。そのとき、その人の口の端がほんの少しだけ得意気に持ち上がったのを青は見逃さなかった。
その人の名前は、榛葉 須臾。棒という字かと思ったら違った。車の免許はないのに船の免許は持っているというよくわからない人。年は青より十一歳上。十一月十一日という、覚えやすい誕生日だった。青は六月二十三日という特徴のない日付なので、なんとなく羨ましい気がする。
──好きなだけ居ればいい。
ふと蘇ったのは感情をそぎ落としたような声。
青を驚かせたのは、その内容や声音より、彼が普通に喋ったことだった。喋れるか否かは半信半疑だったとはいえ、いざ普通に喋っているのを目の当たりにするとそれまでとのギャップから違和感しかない。とはいえ、感情がまるでこもっていないうえに最低限の単語しか口にしないのはあの人らしいとも思う。
ここ何ヶ月か毎日観察していたからこそ気付く表情の変化は、無表情がデフォルトのせいか、一瞬の変化さえ見逃さなければ逆にわかりやすい。
悪い人ではないと思う。だからといっていい人というわけでもなさそうな、よくわからない人。その印象は変わらないどころかますます深まった。
ただ、行動の端々にどことなく年上ぶった感があるのはちょっと大人気ない。おまけにせっかちだ。
ふと、ベッドの上に出しっ放しになっている生徒手帳が目に入った。今の青の存在を証明する物はそれしかない。
榛葉 須臾という人は、必要のない限り青のことを詮索しない気がした。きっと普通なら真っ先に訊いてくるはずの「どうしてそんな姿になったのか」や「家族はどうしているのか」を一切訊いてこない。実際に生徒手帳を見せてもたいした反応はなかった。
彼が唯一反応したのは青が名前の説明をしたときで、なぜそんなに驚いたのか青にはわからなかった。もしかしたら驚いたように見えただけで実際は違うのかもしれない。
取り留めもなく考えながら与えられた空間を青好みにカスタマイズしていると、ういーんと音を立ててロボット掃除機が近付いてきた。
思ったよりもうるさいおかげで、次は近づいてきたらちゃんと避けられる、はずだ。ついさっきは、なんの音だろう、と思っているうちに青の踵にぶつかりフリーズしたのだ。青が報告に行くと、あの人は無表情のままステーションに戻し、ついでにゴミ掃除をして再起動していた。
榛葉 須臾という人は、掃除や整理整頓が身に付いているようで、家の中はきれいだし、使った食器はすぐに洗って仕舞う。ただ、洗濯物を畳むのが苦手なのか面倒なのか、パンツやソックスなどの小物以外は全て一枚ずつハンガーに干して乾いたらそのハンガーごとワードローブに収納していた。シャツは木製のハンガー、Tシャツ類はプラスチックのハンガーと使い分けている辺り几帳面だ。
見ず知らずの男の人と生活する、そこに不快感がないことに青は今更ながら驚いている。
昔友達の家に泊めてもらったとき、彼女のお父さんやお兄さんもこのお風呂やトイレを使っているのかと思うと、湯船に浸かることも便座に直接座ることもできなかった。彼らに対する不快な印象などそれまでなかったにもかかわらず、いざとなるとダメだった。
かえって何も知らない人だから平気なのかもしれない。とそこまで考えて、ああ、現実味がないのか、と納得した。青の中で自分が見える人はいないと決めつけていたせいか、見える人がいた、という事実をまだ上手くのみ込めていないのだ。その見える人が童話の中の魔法使いのように青の境遇を劇的に変えてくれた。どう考えても現実味がない。
今はまだ不快感が生まれるほどのリアリティがないだけだ。
買ってもらった小物類をワードローブの下部にある引き出しに収めようと、青は床に直接座ろうとして気が付いた。どうして家の中でスリッパやルームシューズではなくクロッグサンダルを履いているのかと思ったら、床が所々ささくれ立っているからだ。
「ここの床ってフローリングじゃないんですね」
家の中のどこかにいるらしい須臾に向かって青は声を上げた。
「ゴウハン」
かなり離れた位置からそれだけが聞こえてきた。おそらくあの日曜大工コーナーからだ。
「ゴーハン?」
小さく呟きながら青は頭の中で須臾の言葉を補足する。おそらく、フローリングではなくゴーハンでできているという意味だろう。青にはゴーハンが何を指すのかわからない。それでも、あの人の言葉を意訳するとそういうことになりそうだ。この大きな一枚板がゴーハンなのだろう。
幼い頃の綿と同じだ。青にとっては意味のわからない単語も、綿にとっては必死に伝えようとする何かで、青はそこから前後左右の様々に思考の糸を張り巡らせ、弟の言わんことを理解してきた。
青の見立てでは、家中の家具は手作りのようだし、リフォームなのかリノベーションなのか、部屋を丸ごと自分で作っているようでもある。キッチンや洗面所は小さな白いタイルでできていてひそかにかわいい。
洗濯物を干すために出たバルコニーでは、農家かと思うほど様々な野菜が大きめのプランターで育てられていた。スイカまであって驚いた。ブルーベリーはたくさん実を付けているし、プランターに刺さっている名札を見るとキウイやオリーブ、イチゴやユズも見付けた。
それでいて、彼自身は家庭菜園を楽しんでいるようには見えないのが不思議だ。どちらかといえば趣味ではなく実益なのだろうが、今どきはスーパーで買う方が手間もかからず結果的に安い気がする。
リフォームや家具、野菜作りは何か目的があってやっているのではないか、と青は睨んでいる。
青は、それにしても、としみじみ思う。
誰かと目が合う。誰かが声を聞いて頷いてくれる。訊いたことにワンセンテンスでも答えてくれる。ものすごくキャッチボールは少ないながらも、会話ができる。
少し前までは意識することもなかった些細なことなのに、今はじわじわとした感動がいつまでも続くほど嬉しいと感じる。
お店の中で別行動を取ったとき、あの人が視線を彷徨わせて青を探しているのを離れた位置から眺めているうちに、うっかり泣きそうになってしまった。自分の中にある悲愴感が自覚していたよりもずっと大きくなっていたことを嫌というほど自覚した。
ずっと当たり前のこととして意識してこなかったそんな些細なコミュニケーションは、実はとてつもなく奇跡的なことなのではないかと思う。気配に敏感な犬や猫ですら、青の存在はただの障害物でしかなかったのだから。
それにしても、と青は再度思う。
あの人の知らんふりは徹底している。ついさっきまで一緒に買い物に出掛け、ワードローブの一つを青のスペースとして空けてくれたりしたのに、それ以降は青の存在など完全に無視して自分のやりたいことをしている。
同居初日の青としてはもう少し色々教えてほしいところだが、青が喋れば喋るほどあの人の眉間に微かではない縦皺がはっきりと現れるのだから黙るしかない。それは間違いなく「こいつよく喋る」という無言の呆れだった。
「久しぶりの会話なのにな」
我ながらいじけた口調に青は思わずふふっと笑った。笑ってはっとした。
住むところができ、お風呂に入ってベッドで眠れ、洗濯の心配がいらなくなり、健康的な食事ができる。
心に陽が射していた。
ちらちらと移ろう木洩れ日のように頼りなくとも、湿った心に間違いなく光が射していた。
根本的なことは何一つ解決していない。青は今も透き通ったままだ。それでも見通しが立ったような気がする。少なくとも「透き通る青を知る人がいる」というただそれだけで心がずっと軽くなった。
まるで青の心境にシンクロするかのように、急に部屋が明るくなった。青の部屋の窓前に置かれていたベランダ菜園が一つずつ退かされている。夏の日射しが部屋に入り込み、常に一定に保たれている室温がそこだけ上昇したような気がした。
照り返しのきついルーフバルコニーでは涼しい顔をしたあの人が鉢の位置を決めかねるのか、どこか考えるような顔で少し錆の浮いた鉄の扉と掃き出し窓の周囲を確認していた。
青の部屋のすぐ脇にある避難扉が青にとっての玄関になるのだ。
買い物からの帰り、エレベーターを四階で降りたその人は、エレベーターの裏にある階段を一階分上がって五階に到着すると、階段を上りきった踊り場に設けられている鉄の扉を解錠して、その鍵を青に差し出してきた。
扉を開けるとそこは榛葉家のバルコニーで、玄関を通らずとも部屋に戻れることがわかる。
真意がわからず首を傾げていると、その人は一言「防犯カメラ」とだけ言った。
「あー!」
思わず青は声を上げた。たしかに彼と一緒に青も部屋に入ればカメラの映像も不自然ではない。ところが青が一人で玄関扉を開け閉めすると、カメラには心霊現象として記録される。
青の父親が心霊現象と断定したのはこれが原因だ。家の入り口にある父が設置した防犯カメラに施錠しているはずの玄関扉が勝手に開閉する様子が映っていたのだ。
「ここならカメラに写らない?」
そう訊くと、その人は微かに頷いた。
「じゃあ、一人で出掛けるときはこっちから出入りします」
積極的に疑ってはいなかったものの、警戒心が全くないわけでもなかった「監禁」に関する答えがこれだ。
一つの疑問が消えるともう一つの疑問が浮上する。この人は私をどうしたいのだろう。
その人に続いてバルコニーから家に入り、スーパーで買ってきたものを冷蔵庫に詰めていると、玄関の開く音が聞こえてきた。出て行った人が戻らなければそれもまた事件だし、戻っていないはずの人が再び玄関から出てきたらそれは完全にホラーだ。
よく気付く人だな、と青は思った。それとも大人はそのくらい気付くものなのか。自分ではすっかりなんでもできる大人のつもりでいたのに、透明になってしまった青はどうがんばっても無力だった。
ちなみに、青はエレベーターが使えなかった。
一階でエレベーターの乗り込んだとき、あの人が試してみろと言わんばかりに青を見下ろしてきたから、一人ではない心強さもあって思い切って操作パネルの「5」ボタンを押したところ、予想通りエレベーターは停電した。ただ、実際には停電していないためすぐに復旧したものの、青が押した「5」ボタンは消えていた。やはり操作系は使えないようだ。おまけに古いエレベーターだからなのか、停電と通電時の衝撃が想像以上に体に響いて恐怖を煽った。落ちないとわかってはいても、落ちそう、と思わせるだけの古さがこのエレベーターにはある。カゴ内に染み付いた独特の臭いやシミもある意味歴史的恐怖を感じる一因だ。
青のそんな体質をあの人はどことなく面白がっているようだった。それがなんとなく青の気持ちを慰めてくれる。哀れまれるよりも面白がられているくらいが精神的にはいいのかもしれない。
窓の外にいるその人が、青の部屋を覗いて何事かを考え込んでいた。なんだろうと青は首を傾げる。そんな青をちらりと見たその人は、何事もなかったかのように場所を移した鉢の手入れを始めた。