あおにとける
第三章 気体
18


 青はピクニックが気に入ったようで、人目を気にしなくていい夜のピクニックに週に一度か二度、天候を見て出掛けるようになった。
 遠出することなく沿線の大きめの公園を一つずつ制覇していくのも楽しかった。

「なんか、東京ってどこにいても排気ガス臭くない? 今までそんなこと思わなかったんだけど……年かな」
 来月には二十二になろうとする青に「年かな」などと真顔で言われては三十二の須臾はどうなるのか。
「俺も本土で暮らすようになって最初に思った」
 焦がしネギたっぷりの卵焼きを口に放り込む。うまい、と須臾が呟くと、青は、でしょ、と笑う。
「今は?」
「慣れた」
 何度目かの夜のピクニックは五月の半ば過ぎで、連休に島から戻って来た翌週のことだった。
「あーそっか。島から戻ったばっかだから特に感じるんだ。なんだか呼吸するたびに自分の内側が汚れていくような気がする」
 青の言うことを須臾も実感したことがある。馴れたというよりは諦めたという方が正しいのかもしれない。
 ここで暮らす快適さとあの島で暮らす快適さ、相反する快適さを天秤にかけ、須臾はここで暮らす利便性を求めた。その結果が今ならどれほど後悔してもし足りない。

 ふと思うのだ。もし青が誰からも見えないという状況下になかったら、はたして同じことを思うのだろうか。
 須臾に出会うことのない青はあの島に降り立つこともないのだから、同じことを思うはずもない。にもかかわらず、須臾は青があの島を恋しがるたびに、自分の根っこを褒められたような気恥ずかしくも温かな感情が胸に広がるとともに、意地の悪い感情が冷たい泡のようにゆらゆらと浮かび上がってくる。
 あの島は青が思うほどいい場所ではない。それを須臾はよく知っている。

 遊歩道の脇に据えられたベンチに座り、青が作ってきた弁当を食べる。保温ボトルには熱々の麦茶。
 ジョギングやウォーキングなど、ぽつぽつと夜の公園を通り過ぎる人たちは視界を狭められた競走馬のように一心不乱に足を動かす。これが日の当たる時間帯であれば、景色を眺めながらゆったりと足を運ぶのだろう。
 実際に休日の日中にピクニックに出掛けると、散歩中の人々から時々不躾なほどの視線を感じることがある。いい年した男が独り言を言いながら手作り弁当を食べている様子は、一部の人にとって相当興味を引く光景らしい。
 須臾がいくら気にするなと言っても青はそれを嫌がり、夜のピクニックを好むようになった。
 
「さっきここに来る途中でね、高校の時に付き合ってた人を見かけた」
 須臾が見様見真似で作った木製の弁当箱の蓋を丁寧に閉めながら、唐突に青が言った。
 待ち合わせたのは最寄り駅から一駅先のターミナル駅だ。退社時間がきっちり決まっている須臾であれば、携帯電話の使えない青を待たせることもない。
「付き合っていたっていってもまだ手も繋いだことなくて、付き合うっていうよりただ一緒にいたって感じだったんだけど、なんか」と言った後、青は逡巡のそぶりをみせた。「ものすごくチャラくなってた」
 青が見上げる空は、街灯の明るさにぼやけて星はほとんど見えない。
 どうしてこうも夜を明るく照らすのか。防犯上仕方ないとはいえ、夜の闇を見通せる目を覆うような明るさまで必要としなければならない生き方に息苦しさを覚えるのは須臾だけだろうか。
「そんなもんだろう」
「そんなもんかな?」
「そんなもんだ」
 一つ向こうの大通りを救急車が通り過ぎていった。いつまでも耳に残る残響を振り払うように、青がふるっと身動いだ。
「須臾は、変わらないね」
「そういう時期はとっくに過ぎた」
「須臾って今、三十……いくつだっけ」
「三十二。十一月で三十三」
「そっか、おっさんか」
 それはもうしみじみと言われた。
「悪かったな、おっさんで」
 むっとして言い返すと、青はへらへら笑っている。
「でもさ、高校の頃なんて二十歳過ぎたら大人っていうか、はっきり言って二十代はおばさん一歩手前って思ってたのに、二十歳過ぎても感覚的には高校の頃とたいして変わらないんだよねぇ。成長してないってことかな。なんか焦る」
「三十二になっても似たようなもんだ。きっといくつになっても焦り続けるんだろう」
「見た目はいつまでも若くていいんだけどね」
「そうも言っていられなくなる日もくる」
「なんだか、それってすごく残酷だよね」
 残酷さなど微塵も感じていないような軽さで青は言った。それが若さなのだろうと須臾は思う。そう思ったことに、これが年を取ることかと臍を噛んだ。

「ねえ、須臾ってお酒飲まないよね」
 視界に収まるぎりぎりの位置に、酔っぱらった大学生らしき集団がいた。
「付き合い程度には飲むこともある」
「タバコも吸わないよね」
 青は何を言おうとしているのか、須臾は少し考えた末、本音をこぼした。
「あそこで生きていくには健康でなければならない」
 満足な治療も受けられない島では、いざというときには船で本島まで行き、そこで都に救急要請し、自衛隊による空輸で本土の救急病院に搬送される。生きるか死ぬかではなく、生き延びることができるかできないか。たいていの場合は藻掻くことなく死を受け入れる。しかも今は本島で出産すらできず、臨月前には上京して出産することになる。
 須臾が生まれた頃は島に一人の産婆がいた。逆に本島に呼ばれることもあったくらいだ。老いてなおかくしゃくとした彼女が島民の健康を一手に引き受ける、そんな状況だった。
「そっか」
 酔っぱらいたちからどっと奇声が湧いた。それにほんの少し顔をしかめた青は、街灯の明るさ越しの空を眺めて、諦めたように前を向いた。整然と手入れされた木々の向こうに街の灯りが星のように浮かぶ。
「野菜を自分で作ってたのも、家の内装や家具を自分で作ってたのも、全部あの島で暮らすため?」
「そうだ」
「最初から須臾はあの島で生きることを考えていたの?」
 そこでようやく須臾は青の言いたいことがわかった。
「ずっと居てもいいと言ったのは本心だ」
 青が須臾に顔を向けた。きょとんとした顔を見る限り、わかったつもりでいた須臾は何もわかっていなかったようだ。
「それは知ってる」
 やけに断定した口調の青は、須臾の内心などお構いなしに先を続けた。
「んー、なんっていうか、もうずっと前から一つの目標に向かって着実に努力してたんだなあって思ったら、それってすごいなーって」
 風に雨の臭いが混じっていた。天気予報でも須臾の見立てでも今晩は晴れるはずだった。
「青、雨が降る」
「えー」と青はひとしきり不満を吐き出したあと「急げ!」とベンチから勢いよく立ち上がり、慌ただしく二人分の弁当箱や保温ボトルをエコバッグに詰め込んでいく。
 そこから一駅分電車に乗り、小雨が降り出す直前に健気に動き続ける昭和の古いエレベータに乗り込んだ。



「よろしくお願いします」
 緊張気味に頭を下げたのは、須臾より一回り年上の生真面目そうな男だった。四十四から五十五歳までの任務となる須臾の後任だが、これは持ちそうにないなというのが須臾の印象だった。
 男はとにかくよく喋った。軽い自慢から軽い自虐、どこまでも軽い言葉は緊張からくるものだろうが、この任務には邪魔にこそなれ必要になることはない。それでも選ばれてここにいる以上、須臾は必要なことを全て叩き込んだ。須臾がされたのと同じように。
 コユミの立場になって初めてコユミの心情を理解する。不安なのだ。自分から引き継ぐことによってこの男がこの先どうなっていくのかが。
「娘がいまして。今十七歳なんですが、もう最近は口を利いてくれなくなりましてね。久しぶりの会話がクソジジイの一言ってことが多くて」
 業務にも須臾にも関係のない話を男は訥々とする。十七歳と言われて須臾の脳裡に浮かぶのは出会ったころの青であって、決してサカイと名乗った男の娘ではない。
「個人的な話題は控えた方が」
「あなたは、あまり話しませんね」
 なんとかコミュニケーションを取ろうと躍起になっているサカイは物悲しそうに言った。
「必要ありませんから」
 コミュニケーションが業務を円滑にするような仕事でもなければ、逆に足を引っ張る事態になりかねない。十一年間、常に孤独と向き合うような仕事だ。



「なんか疲れてる?」
 どう話せばいいのかを須臾が考えあぐねていると、青はうんうんと訳知り顔で二度頷いた。
「仕事のことで疲れてるってわけね」
 勝手に理解した青は熱々の麦茶が入ったマグを手を洗ったばかりの須臾の前にことんと置いた。
「人は人、自分は自分って思わないとやってられないよね」
 青は何も知らない。何も知らないからこそ、時々鋭いことを言う。
 須臾は部屋着に着替える前に一息吐いた。

 食事の席に着いた青が身を乗り出すように言った。
「ねえねえ、私ね、手作りアクセサリーを売ってみようと思うんだけど、どう思う?」
 青は島で拾った様々なものと、須臾が買ったものの使わないままツールボックスの底に眠らせていた細い銅線などと組み合わせて、チャームやペンダントトップを作っている。
 在宅ワークが再開できないせいで手持ち無沙汰らしく、貝殻や珊瑚の欠片、流木、シーガラスなどを使って不器用ながらも味のある物がいくつも出来上がっており、須臾もその一つを鞄のファスナートップとして使っている。
「あの拾い物で作った?」
「その言い方だとゴミみたいだからやめて。ほら、須臾が撮ってくれたインスタントフィルムを綿に送ったら、それを同級生に見せたみたいで欲しいって」
「売れたのか?」
 驚いて茶碗から顔を上げると、青は得意気に頷いた。
「まあ、高校生だからそこまで高くは売れないんだけど」
「やってみればいい」
「やっぱり? 売れたら儲けもんだよね」
「欲を出すと売れないぞ」
「わかってる。そのへんの感覚は綿に任せる。どうせ拾い物だしね」
 青はちょっとした興奮に頬を赤らめ、嬉しそうに笑った。
「でね、どうせならきれいにラッピングしたいから、それらしいお店に行ってみたいんだけど、どこにあるかわかんなくて」
「ああ、たしか通勤途中に包材屋があったな」
「ほーざい屋? 最悪百円ショップでもいいんだけど……」
「物によっては相手も百円ショップだって気付くだろ」
「やっぱり? だよね。じゃあそのほーざい屋さん見に行ってもいい?」
 青のわくわくした様子に、須臾の心もいつになく浮き立つ。

 青は自立しようと足掻いている。心が折れそうになることの方が多いだろうに、それでもしっかり自分の足で踏ん張って立とうとする。それを目の当たりにすれば、否が応でも「生きる」ということを突き付けられる。考えさせられる。



 翌日の退社後、職場近くで待ち合わせることになった。
 青は自分の理想をこれでもかと語り、できればショップカードも作りたいと先走ったことまで考えていた。
 販売は全て綿に委ねることになる。シスコン気味の綿は喜んで引き受けるだろう。

 週に二回義務付けられているトレーニングで汗を流し、シャワーを浴びたその足で医師のもとへと向かう。
「いかがですか、引き継ぎは」
 医師の質問に須臾は曖昧に頷く。
「でしょうね。かの方はかなり上の方からねじ込まれたようですから。大人気ありませんが、残留しないあなたへの意趣返しではないでしょうか」
 医師の苦笑いに須臾も苦笑いで返す。
「おそらく持って三年ほどではないかと。少し、周りに感化されやすい傾向があるようです」
「私の見立てでは二年も持ちませんよ」
 となると、育てるだけ無駄ということだ。だとしたら、須臾の腹も決まる。
「これを、預かっていただけませんか。もし続くようであれば、そのときに渡していただけますか」
 今のサカイに代々譲り受けている手帳を見せることは彼を追い詰めることになりかねない。手帳の最初に記されているのだ、万が一この手帳を渡すことができない場合は、医師面談の際に托せと。ただ、実際に託された記録のないことから、これまで少なくとも須臾が受け取った手帳の持ち主たちは引き継ぎの際に直接受け取ってきたのだろう。
 須臾が懐から取り出した黒い小さな手帳を見て、医師は目を細めた。
「ああ、まだあったんですね」
「ご存じだったんですか」
 感慨深げな医師は手を伸ばし須臾から受け取った手帳をぱらぱらと捲った。
「私のはこれよりもう少し細長いものでしたが……ああ、同じようなことが書かれている」
 懐かしむような医師の声に、須臾は彼も実行部の人間だったのかと驚きを隠せない。
「私は元々医官でしてね。医官としてはあまり優秀ではなく、あなたと同じく任期満了後に前職復帰を拒んだ人間です」
「それで……」
「ええ、それで……」
 医師がきまり悪そうに笑った。



 青との待ち合わせまでまだ時間はある。ただ、今朝の青の様子から間違いなく早めに家を出ているだろう。須臾の足も自然と速まる。
 待ち合わせに場所に向かう須臾の背後から、聞き慣れた声が聞こえたような気がした。背後から青の声が聞こえるはずはない。そう思う一方で、須臾は自分が青の声を聞き間違えるわけがないとの確信もあった。須臾が振り向こうとしたそのとき、再び声が聞こえた。
「須臾!」
 切羽詰まった青の声に弾かれるように身体ごと振り返ると、駆け寄ってきた青が須臾の前に立ちはだかった。それはまるで須臾を背後に庇うような立ち位置で、須臾は一瞬にして警戒を高め、意図して身体の力を抜き、周囲を見渡し、最後の案件で見知った顔を雑踏の先に認めた。
 その手には、刃渡り二十センチほどのサバイバルナイフが握られている。

 須臾の躰は思考を待たずに勝手に動いた。青の肩を掴み、振り向かせると同時に片手で抱きかかえ、前方から視線を外さないままその華奢な躰を背後に隠す。
 そして、背中に青の気配を感じながら、内ポケットに忍ばせた常に携帯が義務付けられている緊急ボタンをいつも通り押した。