あおにとける
第二章 液体11
帰りはまだ暗いうちに出航した。
青は朝から何も胃に入れず、船の揺れにひたすら耐えた。船室で進行方向にうつぶせで寝転がっているのが比較的楽だと気付いてからは、ずっとその姿勢のまま酔い止めの眠気に抗わないよう意識して過ごした。
船は闇を抜け、空が青に染まり、白の果てに朝の始まりを見る。
時々大きく揺れるたびに内臓が浮き上がり、青は込み上げてくる吐き気にひたすら耐えた。
着いたぞ、の須臾の声に、青はうっかり吐かないよう、ゆっくり起き上がり、のっそり船室から顔を出した。
「慣れたか?」
「慣れないよ。でも少しマシにはなった」
岸に渡された板の上をリュックを背負ってよろよろと渡る。小型船を降りると今度はフェリーだ。
フェリーが出航するとき、ちょうど年末年始ということもあってか帰省客が多かった。カラフルな紙テープが岸と船の間で長く尾を引く。映画やドラマでしか見たことのない光景はまるで心をこの島に残していくかのように見えて、途中で千切れた紙テープの残骸が青には「別れ」という言葉を強く意識させた。
須臾にも見送りがいた。
船を用意してくれた男の人を須臾は「おじさん」と少しかしこまった声で呼んでいた。地元の人の言葉は難解で、日本語なのか英語なのかはたまた別の言語なのかが青にはまるでわからなかったものの、そのおじさんの言葉は聞き慣れた標準語だった。
須臾が「また五月に」と言ったときのおじさんの目には須臾を心配する気配があった。
他にもやけに偉そうな人が青にはわからない言葉で須臾の肩を何度も機嫌よく叩いていた。つい青は「何語?」と呟いてしまい、それにうっかり反応してしまった須臾が何かを誤魔化すように咳払いしていたのが面白かった。
先に地獄を見たからか、フェリーの揺れの少なさに青は今更ながら感動した。船酔いはずいぶんとマシになり、気持ち悪いことに変わりはないものの、とにかくじっとさえしていれば嘔吐かなくなっただけ楽だった。
自作のポンカンウォーターをちびちび飲みながら、青はひたすら酔い止めの眠気に身を委ねる。
帰りの便も個室を用意してくれた須臾には申し訳なかったものの、やはり部屋から出ることなく二十四時間の船旅を終えようとしていた。行きも帰りも一度も展望ラウンジに上がっていない。
「ごめんね、せっかく個室とってくれたのに」
「これだけ引き籠もったんだ、むしろ元取っただろう」
からかい混じりの須臾の声に、青は一層申し訳なくなる。
ちらっと見えてしまったのだ。そもそも船の運賃がびっくりするほど高かった。しかも個室は高級ホテル並の料金で、青は気軽について来たことを後悔していた。
おまけに、お金を出した須臾は青に気を遣ってほとんど部屋にいなかったのだから、なおさら申し訳ない。
「どうだった?」
洗面道具を仕舞いながら須臾が何気ない様子で訊いてきた。交代でシャワーを浴び終えたところだった。
「楽しかった。連れてきてくれてありがとう」
本心からの言葉だ。何も考えず、自然の中でぼんやりする時間が青には必要だったのだと思う。打ち寄せる波や風にそよぐ木の葉、ゆっくりと形を変える雲や時間によって色を変える海と空。何一つ飽きることなくいつまでも眺めていられた。
「あそこには何もないのに、全てがあったような気がする」
ん、と相づちを打つ須臾の方が満足そうに口元をほころばせていた。
やっぱりそうだ、と青は確信した。須臾があえて青を放っておいてくれたからこそ見えた景色のような気がする。一人でなければきっと見えなかった。
「ごめんね、お金使わせて」
青は思い切って言った。須臾はお金のことを言われるのがあまり好きではないはずだ。
「なんだ、そんなこと心配してたのか」
「するよ、部屋だって服だって全部買ってもらってて、お金すごく使わせてるのに……」
「後悔したくなかったんだ」
青の泣き言を遮るように、須臾ははっきりと言った。
「もう二度と後悔したくなかったんだ」
もう一度、須臾は言った。宣言するようなきっぱりとした口調だった。
帰宅後の荷ほどきをそこそこに、青は「ちょっと見てくる」と部屋を飛び出した。
帰り際、公園が目に入った瞬間に何か予感のようなざわざわとした何かを感じて居ても立っても居られなくなったのだ。まさか、と思いつつどうにも気になって仕方がない。
背後から追いかけてきた「どうした?」に答えることなく、青はバルコニーへと飛び出した。
公園のトイレに設置されている小さな掲示板。
その下端に小さく青が書いた「ALIFE AO L29」の上に下手くそな字が書き殴られていた。
なんで連絡してこないの!
ALIFEじゃなくてALIVEだよ! バカ!
連絡すること! A02
最後にタンポポの綿毛のマークがある。右曲がりの「!」を青はよくからかっていた。「バカ!」が一番大きく、他の文字の三倍はある。
綿からのメッセージだった。
「弟か」
背後から聞こえてきた声に青は伝言から目を逸らさずに頷いた。
「この公園、いざというときの待ち合わせ場所だったの」
だから、青はこの公園にいた。頼らないと決めたのに、それでも会いたかった。ただもう一度会いたかった。
「連絡先は?」
「たぶんおかあさんの実家」
家族が夜逃げのように消えた日の朝、青の部屋のドアの隙間に隠すように小さなメモが挟まれていた。そこにはおかあさんの字で青の知らない住所が書かれていた。
おかあさんは父との結婚を反対されていたようだ。それは誰に言われたわけでもなくいつの間にか青の中に沁み込んでいた。きっと大人たちの会話の端々からいつしか感じ取っていったのだろう。おかあさんの実家がメモにある県だということも、なんとなく青は知っていた。
そのメモを見たとき、青はこれまでおかあさんの事情を知ることなく生きてきたことに気付いた。だから、おかあさんがどんな意味をもってその住所を隠すように青に残していったのか、どうしてもわからなかった。
「私、おかあさんの実家もおかあさんの親もおかあさんのこと何も知らない」
────◆────
ひとまず須臾はなんとか青を説き伏せ連れ帰った。そうでもしないと彼女はいつまでもその場に立ち尽くしていそうだった。
「住所がわかっているなら行ってみればいいだろう。そんなに遠いのか?」
「群馬」ぼそっと青が答える。
「群馬なんてすぐそこだろう」
「そうだけど」
須臾は話しながら米をとぎ、バルコニーの様子を一通り確認し、米を炊き始める。
「行く勇気がないならせめて手紙でも出しておいたほうがいい」
「勇気って……手紙……」
青の考え込むような気配が言葉尻から伝わってきた。
沸騰した米の火を弱め、島で作ってきたアカバの干物を焼き網に並べる。
青が何に怯えているのかわからない以上、須臾は月並みなことしか言えない。青はスマホが使えない。簡便なやりとりができないのであれば、出向いて直接伝えるか手紙を書くしかない。
「手紙って、何を書けばいいの?」
「は?」
「書いたことないし」
「はあ?」
今どきはそんなものなのか? まさか出し方もわからないなんてことはないよな。
須臾は頭に大きな疑問を浮かべながら振り返った。青はソファーに浅く座り、まさに出し方もわからないと言いたげな途方に暮れた顔をしていた。
「学校で習わなかったか?」つい須臾が嫌味を言えば、青は真顔で「小学校の時に習ったような気がする」と神妙に答える始末だ。
衝撃を受ける須臾をよそに、青は「切手ってどこに売ってるんだっけ」とまで言い出した。須臾は頭を抱えるしかない。
郵便が淘汰される日は須臾が考えるよりも早い。妙な確信を胸に、須臾はアカバの焼き加減を見た。
青は眉間に皺を寄せながらも、アカバの干物をおいしいおいしいと喜んで食べた。嫡々と魚食に傾いていく青は実に素直でいっそ清々しい。
ニュース専門チャンネルで不在中の出来事を確認し、久しぶりに湯船にゆっくり浸かり、明日の出勤に備えてスーツの用意をし、ソファーに寝そべりながら何事かを悩んでいた青が自分のスペースに姿を消したあと、家中の明かりを消して須臾はベッドに入った。
「あのね、おかあさんも綿も、私と血が繋がってないの」
しばらくして、隣のスペースから青の声が唐突に響いてきた。突然の告白に須臾は半ば体を起こした。
「私が年中さんのときにおとうさんがおかあさんと再婚して、年長さんのときに綿が生まれた」
「弟は父親の子じゃないのか?」
「綿はおとうさんの子だよ。おとうさんの子じゃなかったのは私の方だった」
それっきり、青は口を噤んだ。感情の見えない淡々とした声だった。
青が母親や弟と連絡を取りたがらないのはそういう訳だ。そう言いたかったのだろう。
翌朝、冬休みの青を家において須臾は出勤した。
心配ではあったが、一晩寝たせいか、青は比較的落ち着いていた。とはいってもやはり眉間の皺は取れず、思い悩んでいるようではある。
「どれだけ時間がかかってもいいから、よく考えろ」
「そうする」
「勝手に出て行くなよ」
ふと須臾は思い付きで言った。それに対し、青は須臾の予想以上に驚いた顔をしたあと、きまり悪そうに目を逸らした。須臾はありったけの自制心でなんとか舌打ちを堪えた。
「いいか、お金使わせて申し訳ないと思うなら、黙って出て行くようなマネだけはするな」
どうしてこう彼女は明後日の方向で遠慮するのか。もっと真っ当な方向で遠慮すべきだ。たとえばソファーの上で菓子を食べないだとか。
「いってらっしゃい」と力なく手を振る青を見て、帰りに何か甘い物でも買うか、と咄嗟に考えてしまった須臾はかなり青に絆されていることを自覚した。
結局青は一週間だらだらと悩み続けた。しかもそれだけ悩んでも具体的にどう行動するかを決められない。冬休みも終わり、再び高校に通い始めたことで行動しない言い訳が増え、ますます先延ばしにしようとする。
「ひとまず俺が、お宅のお嬢さんを保護していますとでも連絡するか?」
「いいの?」
見かねた須臾の思い付きに青は勢いよく飛びついた。須臾がそう言い出すのを待ってましたと言わんばかりに青の目は輝いている。思い付きで余計なことを言うものではない。
「ちゃんと自分でも一筆書けよ。最悪誘拐だと思われないよう真摯に俺をフォローしろ」
「わかった。エロいことはされてませんってちゃんと書く」
「逆効果だ」
須臾に睨まれた青は首をすくめた。どうして青の思考は斜めを向くのか、須臾には理解できない。
木曜日の夜に須臾は簡素な手紙を書いた。
公園の伝言を見たこと、青を保護していること、自分は青が見えること、青は健康であること。
「なんか頭いい人の文章みたい。おまけに字うまいね」
須臾の手元を覗き込んだ青がやたらと感心していた。ふと不安になって青が書いた手紙を確認してみれば、案の定余計なことが満載だった。
「バカか? なんでわざわざ部屋が壁で仕切られていないけどとか、防犯カメラに映らないよう非常口から出入りしてるとか、一緒に船で無人島に行ったとか、誤解を与えかねないことばかり詳細に書くんだ。日記じゃないんだぞ」
「余計かな?」
「余計だ。もっと簡素に書き直せ。健全に保護され、ちゃんと学校にも行ってますって」
「かんそ? けんぜん?」と青が首を傾げた。
「自分で調べろ」
「えー、だってスマホ使えないしぃ」
その言い方がやけにバカっぽく、イラッとした須臾は青の前にあえて、どん、と音を立てて持ち運びに不向きな日本一有名な国語辞典を置いた。
「あー……これ知ってる。どうやって使うんだっけ」
さも本当は使い方を知っているのになぜか今は思い出せないふうを装う青は目を泳がせながらぱらぱらとページを捲る。
須臾はこれ見よがしに大きく溜め息を吐いた。彼女の弟が書いた「バカ!」の文字が須臾の脳裡に鮮烈に浮かんだ。
彼女は勉強ができないわけではなく、単にものを知らない。知らないことを恥だと思っていない。それが幼さからくる傲慢だと須臾も気付いているが、さすがに高校二年にもなれば自覚すべきだ。
「これまでも俺の言ってることちゃんと理解してなかったな」
「大丈夫。たぶん大体わかってるから」
青が自信満々に答えた。そこでふと須臾は思い出した。
「昨日俺が真摯にフォローしろと言った意味、本当にわかってるか?」
「わかってるよ。紳士でしょ。ジェントルマンくらい知ってるから」
またもや青は自信満々に答えた。心なしか得意気でもある。
須臾は溜め息を呑み込んだ。なぜ前後の文脈から理解しないのか。青が答えたエロがどこから来たのか、須臾は理解しなくてもいいことを理解した。
そして青が書き直した文章は、いかにも脅されて書きましたと言わんばかりの文体だった。これは何度書き直しても無駄だと判断した須臾は半ばヤケになり最初に青が書いた方を封筒に入れた。
「なんで? せっかく書き直したのに!」
須臾が青を一瞥すると、「今バカって思ったでしょ!」と幾分やり遂げた感を漂わせながら肩の荷が下りたとでも言いたげな表情で悪態をついてきた。どうしてこうもわかりやすいのか。須臾には理解できない。
「で、母親の旧姓は? ここに住んでいるかはわからないんだろ?」
はっとした顔の青を見て、須臾は察した。
「とりあえず丹由姓で出して、ダメなら宛先不明で戻ってくる」
「そうなの?」
「もう少し社会常識を学べ」
「えー、まだ高校生なのに?」
「高校生のくせに知らないことが多すぎる。もう少し己の無知を恥じろ」
呆れ顔の須臾に、一仕事終えた感を全身に漲らせている青はしばらく「えー」を繰り返していた。
金曜の朝ポストに投函し、その夜半に雪が降り、翌朝青は朝からはしゃぎ、東京の交通網は恒例行事のように一時マヒした。
そして日曜の朝、青の弟と母親は彼女が手紙に書いた非常口のドアを「おねえちゃん」と小声で呼びかけながら控えめにこつこつ叩いていた。