ゆめのそのさき
第三話


 温もりを感じるような暗闇の中。

「学校の廊下で急に倒れたんですって」
「救急搬送されてきたときには既に意識がなかったらしくて」
「それ以来眠っているのか。原因不明なんだろう?」
「今のところ目覚める気配は無いそうよ」
「ご両親も心を痛めているでしょうね」
「それがね、この子は大丈夫って、気丈に振る舞っているのよ」
「やりきれないわね、まだ若いのに」

 色んな声が聞こえてきた。

 ふと頭に感じるのは、撫でられているような感覚。ああ、きっとお母さんだ。また心配かけている。



 意識がゆっくりと浮上していく。
「目が覚めた? もうすぐ夕食の時間だから呼びに来た」
 聞こえてきた優しさが含まれたような声に、ゆっくりと瞼を開けると、ベッドに腰掛けるリカルドの姿があった。
 一気に目が覚める。うそでしょ、寝顔見られた?
 慌ててベッドから降りようと、起こしてくれたお礼を言いながら体を起こし、片足をベッドから下ろす。それに慌てたのはリカルドの方だった。
「ちょっ、部屋の外で待っているから」
 そう言い残して足早に部屋から出て行った。
「お嬢様、男性の前でむやみに肌を晒してはなりません」
 部屋に案内してくれた侍女に困ったように言われ、何のことかと自分の姿を見下ろせば、首元が僅かに寛ぎ、素足が片方ベッドの外に晒されていた。とはいえ膝下だ。膝小僧すら隠れている。
 これくらいで? と思いながらも、そういえばここではこの程度でも十分はしたないことだとエルザの記憶に教えられ、何とも言えず複雑な心境になった。
 同時に、でも、と思う。未婚の女性の寝室に男性が入り、あまつさえベッドに腰掛け寝顔を眺めるのもはしたない行為ではないかと。思わず侍女を見れば、考えが読まれたのか苦笑していた。己の主人の行動にとやかく言える立場ではないのだろう。
 思わず扉を指差し「心配して?」と訊けば、侍女は苦笑いのまま頷いた。

 侍女に手伝って貰い、用意されていたドレスとワンピースの間のような、少し豪華なワンピースを着る。私にとっては少し肌触りの悪い、クラシカルな衣装。エルザにとっては一生袖を通すこともないような豪華な衣装。そのふたつの感覚の違いにやはり複雑な気持ちになる。
 どちらも私のようでいて、エルザは私とは別の人。その境界がここに来て少しだけ曖昧になりつつある。
 不安なのは、帰れるとわかってはいても、いつ帰れるかわからないこと。それと同じくらい、エルザの記憶に引きずられている有紗の感覚。
 侍女は肩を少し超えた程度の長さしかない私の髪を、面白いほど器用に結い上げていく。あまりに見事なその様子に思わず見とれていると、あまり映りの良くない鏡の向こうから侍女が柔らかに笑いかけてくれた。その笑顔に母を思い出し、少しだけせつなくなる。

 侍女に開けてもらった扉の脇に、リカルドが壁にもたれるように立っていた。ずっとここで待っていてくれたのだろうか。
「ん、アリサ、そのドレスよく似合っている」
 お世辞の内容より、リカルドに「アリサ」と呼ばれたことが嬉しかった。私は有紗だ。エルザじゃない。
 当たり前のように腕を差し出され、どうしていいかわからずリカルドを見上げると、彼は目を細め、私の手を取り、自分の腕にかけてくれた。エスコートだ。映画の中でしか見たことのないエスコートを自分がされている。その恥ずかしすぎる場面に、顔に熱が集まるだけじゃなく体中が熱くなる。リカルドは当たり前のように歩き出し、すぐそこにあるエミリアの部屋の扉を、先回りした侍女が開けていてくれた。

 さっき通された部屋とは別の扉を開けられる。
 そこには既にテーブルに着いているエミリアの姿があった。それにひどく驚き慌てて謝罪する。
「お待たせして申し訳ありません」
 ここでは年長者や身分の高いものが先に席に着くことはない。余程待たせてしまったのかと慌てて頭を下げてしまう。下げてから、ここではお辞儀は通用しないことを思い出し、今度は慌てて頭を上げる。もう何をやっているのか、自分に呆れる。
「いいえ。私が勝手に早く席に着いていただけですから、どうかお気になさらずに」
 私のあたふたした様子を少し面白そうな顔で眺めていたエミリアが、穏やかにそう言ってくれた。
「母上はなぜか最初に食事の席に着きたがる。子供みたいだろう?」
 笑いながらリカルドが椅子をひいてくれる。
「先に席に着いて皆を待っている時間が好きなだけです」
 エミリアは拗ねたような顔でリカルドに反論した。
「ね、子供みたいだろう?」
 二人のやりとりに仲の良さが窺え、思わず頬が緩む。

 そのまま和やかに食事が終わり、再び先程の部屋で揃って食後のお茶を楽しむ。
 リカルドもエミリアも、今の私、有紗のことを知りたがった。
 現在十七歳で、ひと月後には十八歳になること。学生であること。一人っ子で両親は健在、島国に住んでいること。その国の民族は黒目黒髪であること。私の髪や瞳が黒よりも少し薄い焦げ茶色なのは、母方の祖父が別の民族だからだということ。
 二人に訊かれるがまま答えていく。
「皆が黒目黒髪か……。アリサは俺や母上と一緒にいて苦しかったり、気分が悪くなったりはしない?」
 何が言いたいかはわかる。ここでは、魔女は黒目黒髪であることが多い。
「特にそういったことはありません」
「だろうな、アリサからは邪の気配がしない。どちらかといえば俺たちと同じ気配がする」
「皆が一様にそうなのですから、ただ単にそのような特徴の民なのでしょう」
 この世界にも黒目の人も黒髪の人もいる。その両方が揃うのが稀なだけだ。両方が揃ったところで必ずしも魔女だというわけでもない。だからこそ、黒目や黒髪を持つ子が生まれると、教会に連れて行き、聖水の産湯に浸けることが習わしとなっている。

 ひとしきり会話を楽しんだあと、宛がわれた部屋に戻り、眠りについた。先程まで眠っていたことに加え、何とも足元のおぼつかない、心許ない状況に、眠れるだろうかと不安に思いながらベッドに潜り込んだ。……はずなのに、翌朝侍女に起こされるまでぐっすりと寝ていたことに、案外しぶとい自分を知った。



 まだ夜が明ける前の薄闇の中、起こしてくれた侍女に促されるまま身支度を調える。
 宿の外に出ればちょうど夜が明けようとしているところだった。
 綺麗な朝焼け。高い建物がないからか、朝日が真っ直ぐに、突き刺さるように目に飛び込んでくる。ここはどんな世界なのだろう。まるで地球のいとなみと同じに思える。

 宿の前には立派な箱馬車が止まっており、繋がれた馬たちが白い息を吐き出している。それを見た途端、肌寒さを覚え、ふるりと体が震えた。
 既にエミリアもリカルドも馬車に乗り込んでいると聞いて、慌てて馬車に乗り込もうとすれば、入り口に立つ男の人が手を貸そうと、その手を差し出してきた。その手を借りようとして、いつも通り恐怖に似た嫌な感じがしてしまう。リカルドが平気だったから、ここでは平気かと思っていた。
 差し出した手を引っ込めるわけにもいかず、かといって彼の手を借りるのは怖く、どうすればいいのか途方に暮れてしまう。それを見た男の人が、逆に気を利かせてその手を伸ばしてきた。恐怖を押し殺してその手に掴まる覚悟を決めた瞬間、逆側から伸びてきたのは侍女の手だ。
 彼女の手が私の手を素早く握って引き寄せてくれ、思わずほっとして肩の力が抜けた。手を貸してくれようとした男の人に申し訳なくなり、軽く膝を折り謝ると、気にするなとでも言うように笑いかけられる。いい人なのに失礼なことをしたと、もう一度軽く膝を折る。

 侍女の手を借りて、馬車に乗り込む。
 馬車の中には眠そうな顔をしたリカルドと、その向かいには早朝にもかかわらずきっちりとした様子のエミリアがいた。
「お待たせしました」
 声をかけながら踏み台に足を乗せると、私の手が侍女からリカルドに移される。不思議とリカルドの手は嫌な感じがしない。そのリカルドに手を引かれ、彼の隣に座らされた。
 私に続いてそのまま乗り込んできた侍女が「失礼いたします」と声をかけ、エミリアの隣に座った。本来なら、私が侍女と並んで座るべきだ。席を替わるべきかとリカルドに目を向ける。
「ああ、かまわない。あの二人は仲がいいから」
 私の世話をしてくれていた侍女は、エミリアが子供の頃から付いているそうで、誰よりも気心が知れ、誰よりも信用できる、自慢の侍女なのだそうだ。エミリアが本当に自慢気に教えてくれた。
 エマという名だと教えられたその侍女は、「エミリア様、恥ずかしいのでおやめください」と、どこか嬉しそうに照れ笑いを浮かべている。そのやりとりは確かに主従と言うより、仲の良い友人のようだった。

 途中の街で朝食を取り、更に途中の街で昼食を取り、日が暮れる直前には本日の宿に到着した。
 我慢し続けた馬車酔いに加え、お尻と腰がとんでもなく痛い。よろよろと馬車を降りた私を、手を貸してくれたリカルドが心配そうな顔をしつつも面白そうに笑う。
「夕食食べられそう?」
「……無理そうです」
 食べるより戻しそうだ。
「では後ほどお部屋に軽いものを用意致します」
 すかさずエマが気に掛けてくれる。リカルドからエマに手渡され、用意された部屋に手を引かれながら入り、そのままベッドに寝かされる。
「横になられているうちに、ご気分も回復されるでしょう。しばらく後にお食事とお湯の用意をいたします」
 エマがその目に心配を宿しながら、静かに部屋を出て行った。

 馬車があんなに揺れる乗り物だとは知らなかった。アスファルトで舗装された土埃の立たない平らな道、ほとんど揺れることなくシートも快適な車、それらに思いを馳せているうちに思考がとろけ出す。
 うとうとしていると、こつこつと小さく扉を叩く音が聞こえ、誰かが部屋に入ってきた。エマかなと思いながらも眠気に逆らえずにいると、そっと頭を撫でられた。ああ、エマじゃなくてお母さんか。完全に眠りに落ちる直前にそう思えば、口からは「お母さん」との呟きが零れてしまう。頭を撫でる手が止まり、額に温かな湿り気を感じたような気がした。

「お嬢様、お食事の用意が調いましたが、いかがなさいます?」
 エマの声に目が覚める。ちょうどいいタイミングだったのか、すっきりと目覚められた。
「ご気分はいかがです?」
「随分と良くなりました」
 体を起こせば、それを見たエマの目が柔らかに細まって、小さくひとつ頷かれる。
「お食事はいかがなさいます? 召し上がれますか?」
「量は食べられそうにありませんが……」
「ではこちらへ。匂いの強くない、消化に良さそうなものを用意いたしました」
 そう言いながらエマの手を借りてベッドから降り、部屋に置かれている肘掛け椅子に連れて行かれる。テーブルの上には湯気を立てた美味しそうな香りのスープ。きっとわざわざ用意してくれたのだろう。
「私はお湯の用意をして参ります」
「あっ、あの、エマさん、ありがとうございます」
「ゆっくりお召し上がりください」
 にっこりと笑ってから一礼したエマは、その先に浴室があると思われる扉の向こうに音も無く消えた。

 熱すぎず温すぎない、丁度いい温度の野菜スープは、体の内側にじんわりと染み込んでいく。素朴で優しい味に癒やされ、思いがけず綺麗に平らげてしまった。
「お口に合いましたか?」
 いつの間に部屋に戻っていたのか、エマが目の前にお茶を差し出してくれた。
「はい。とっても美味しかったです。あまりに美味しかったので全部食べることができました」
「それはようございました」
「ごちそうさまでした」
 その言葉に一瞬きょとんとするエマ。ごちそうさまなんてこちらでは使わない言葉だ。でも意味は通じたのか、柔らかな笑顔で頷いてくれた。
「明日も本日と同じ時間での出立となります。あまり長湯されぬよう、早めにお休みください」
 そう言い残し、食べ終えた食器と共にエマは部屋を出て行った。

 彼女に言われた通り早めにお風呂を終えると、いつの間にかベッドメイクがし直され、その脇の椅子の上には明日の衣装が用意されていた。エマの姿はない。
 昨日も今日も、お風呂に入っている間にいつの間にか着ていたものが回収され、湯上がりに羽織るガウンが置かれている。下着を他人に洗われるのは嫌だと思うけれど、それが彼女たちの仕事だと思えば仕方ないことだとエルザの感覚では思う。有紗の感覚ではこっそり自分で洗おうかと思ってしまう。
 それにしても、いつの間に回収されているのかが全くわからない。エマは音を立てることもなければ、気配を感じることも殆どない。
「あれがプロのメイドなのかぁ」
 思わず呟いてしまうほど、その仕事ぶりは完璧だ。
 エマは私の性質を理解してくれているのか、一人にしてくれる。本来なら部屋に控えていなければならないはずだ。その気遣いが一番嬉しい。
 きれいに整えられたベッドに潜り込み、昨日と同じように眠れないのではないかと思いながらもあっという間に眠ってしまったようで、翌朝再びエマに起こされる羽目になった。



 またしてもエミリアたちを待たせてしまうと、慌てて顔を洗い、口をゆすぎ、急いで用意されていた衣装に袖を通す。それは、昨日よりもずっと体に合っていて驚いてしまう。
「どこか気になるところはございませんか?」
 エマが手を入れてくれたのだろう、その心遣いがすごく嬉しい。
「ありません。着心地が凄く良くなっています。ありがとうございます」
「それはようございました」
 エマの笑顔はいつだってとても温かで、心に凝った不安を軽くしてくれる。

 昨日と同じように馬車に揺さぶられ、途中の街で朝食と昼食をとり、日が暮れる頃には再び宿に到着する。
 そんなことを数日繰り返し、繰り返されるごとに馬車酔いも軽くなるかと思いきやそうでもなく、毎晩エマの用意してくれた野菜スープのお世話になった。朝食は何とか食べられる。昼食はあまり食べられず、夕食になると何も口に入れたくなくなるほどに、馬車は揺れる。
 どの宿でも同じ味の野菜スープが用意されることが不思議で、訊けばエマが手ずから作ってくれていたと聞き、改めてお礼を言う。あまりに美味しく優しい味わいに、思わず作り方を訊いてしまうくらいには、私とエマも打ち解けていた。