ゆめのそのさき
第一話それは、まるで分厚いコンクリートの壁でできたコインロッカーのようだった。
まるでどこかの庭園のようにきっちりと手入れされた緑の芝生。木漏れ日の中、ゆっくりと歩きながら彼の今世での名を探す。
聞いていた場所にそれは静かに刻まれていた。
そっとその刻まれた名に指を這わす。有紗には覚えの無い名前。もうひとつの名前の方が記憶に馴染んでいる。指に伝わるひんやりとした石の感触。それは、どこか寂しさを含んでいるようにも思えた。
「ありがとう」
ここに来るまでにあったたくさんの想い。それは結局、たった一言に集約された。
ふと見上げた空の色は、日本のそれとは少しだけ違って見える。
もう一度、刻まれた彼の名に目を戻し、小さな花束を手向けた。もうひとつの名を持つ彼が好きだった花。それに似た花を探した。
どうか来世では幸せになって欲しい。彼女はあなたをとても愛していたから。
気が済むまで彼のお墓に刻まれた文字を眺め、彼の今世の名を瞼に刻み付ける。最後に彼のもうひとつの名前を呟いた。彼女の代わりに。
背後に人の気配を感じて振り返ると、数歩先、そこにどこか既視感を覚えるような、けれど見知らぬ男の人が何かに驚いた様子で呆然と立っていた。
このお墓はいくつもの小さな区画が上下左右に分かれている。この場所にいると邪魔なのかもしれない。
慌ててその場を去ろうとした瞬間、いきなり腕を取られた。
『アリサ! 君はアリサだろう?』
聞こえたそれは、記憶にある言葉。ここではない、夢の中で話していた言葉──。
──∽──
夢の中の十七歳の私。
それは、悲しくも残酷な夢。
──∽──
彼女は、艶やかでとても綺麗な黒髪を持つ、美しい女性だった。
夢の中の私には婚約者がいた。ほんの少しの未来、二人は結婚する予定だった。
その婚約者の彼が、ある日、黒髪の綺麗な彼女を保護した。街の広場で泣きそうな顔で途方に暮れていたらしい。どうしたのかと声をかければ、気が付いたらいきなりまるで見覚えのないこの場にいた、と彼女は言ったそうだ。元居た場所を彼女に訊いても、彼にはわからなかったらしい。こことは別の国ではないかと思ったそうだ。
彼はとても優しい人だった。
小さなこの町では彼女を保護してくれるような場所はない。隣街ほど大きければ、教会の規模も大きく彼女を保護してくれるだろうけれど、この街の教会はひどく小さく、聖職者もいない。
声をかけてしまった以上放り出すこともできず、結局、彼は彼女を自分の家に連れ帰ってきた。ほんの少し先、夢の中の私と一緒に暮らし始める予定だった家に。
夢の中の私は、暇さえあれば少し先を夢見て、自分が暮らすことにもなる彼の家に通い、家の中を整え、彼の身の回りの世話をしていた。そのせいか、彼が連れ帰ってきた彼女の世話も当然のように任された。
初めこそ彼女に同情していた私も、徐々に彼女の存在を疎ましく思い始める。
彼女は当たり前のように彼に甘え、あまつさえその女性らしい体を彼に寄せようとする。まるで私の場所を奪うかのように。
彼女は行く当てもないのだからと、その醜い感情をどうにか抑え込み、彼女には優しさを、彼には笑顔を向け続けた。
次第に、彼と婚約しているのは私ではなく彼女だとの噂が囁かれるようになり、彼女自身それを否定するどころか、一緒に暮らしていることを肯定していたと、心配顔の知人たちが夢の中の私に耳打ちする。
その噂を聞きつけたのは知人たちだけではなかった。強欲な夢の中の私の両親もそれを耳にしてしまう。
彼と婚約する直前まで出ていた、隣街の領主の七番目の妾にという話。それが蒸し返された。決して楽な暮らしをしていたわけではない両親は、その支度金の多さに目が眩んでいた。
その額は、婚約者の彼の用意した支度金とは天と地ほどの差があった。
両親からそれを聞かされ、慌てて婚約者のもとを訪れる。
彼の婚約者が私ではなく彼女との噂があること、それを聞いた両親が領主のもとに嫁ぐよう言ってきたこと、もう後がないことを伝え、やはり彼女を隣町の教会に預かってもらうよう、彼に詰め寄った。
彼の家に保護され、彼女が落ち着きを取り戻した頃、一度隣町の教会に保護してもらった方がいいと提案したことがある。独り身の彼の家にいつまでも若い女性が滞在しているのは互いに外聞が悪い。
ところが彼女はそれをひどく嫌がった。一人では生きていけないが、教会に行くのはどうしても嫌だと、彼に縋り付き、私に涙ながらに謝った。
そのあまりにも悲壮な様子に、彼も私もそれ以上強く言えなくなり、結局この日までずるずるときてしまっていた。
心優しい彼は、その時の様子を思い出したのか、彼女を追い出すことはできないと、困った顔をする。私との婚約を解消するつもりはなく、予定通り結婚しようと、大好きな柔らかな笑みを浮かべ、私の頬をその温かな手で優しく包んだ。
それなのに──。
夢の中の十七歳の私は、彼とすぐそこにある未来を誓い合ったその日のうちに、両親によって浚われるように隣町の領主の館に連れて行かれ、呆気なく純潔を散らされた。日々穢され続け、その度に欲しくもない高価な宝飾を領主から贈られる。それを妬んだ他の妾たちに毒を盛られ、夢の中の私は呆気なくその命も散らされた。
──∽──
その夢を初めて見たのは、小学校の入学式直前。
その全てを追体験し、夢の中の出来事であるにもかかわらず、その全ての感覚や感情をリアルに感じてしまった私は、その小さな心と身体に大きな負担をきたした。
呻き、泣き叫び、絶叫し、そして錯乱。
救急搬送された私は、そのまま入院することとなり、毎夜同じ夢を見ては錯乱し続けた。
どのくらいそんな夜が続いたのか。
ある日、唐突に十七歳の私は今の私ではなく、別の人の記憶だと理解した。
今の私と記憶の中の十七歳の私。そのふたつがゆっくりと離れていく。
どういうわけなのか。それがわかった途端、その夢を見ることはなくなり、六歳の私は徐々に落ち着きを取り戻していった。
入院していたために、二ヶ月遅れで入学した小学校では、既にいくつものグループができ上がっており、十七歳の私の記憶と、小学一年生の私自身の折り合いがなかなかつけられなかった私は、自然と一人で居ることが多くなった。
あの夢のせいで男の人どころか男の子にすら怯えてしまうことも、それに拍車をかけた。
幸い両親は、私の身に起こったことを誰よりも心配し、その全てを丸ごと信じてくれた。前世の記憶などという、医者でさえ訝しむことを。
両親に愛され、慈しまれ、中学に進学する頃には、少し男の人が苦手な普通の女の子として振る舞うことができるようになり、高校に進学する頃には、記憶の中の私の年齢に近付いたせいか、その記憶は日々重なりゆく新たな記憶に埋もれ、その奥底に沈み込んでいった。
そして、記憶の中の私と同じ十七歳を迎え、あと少しで十八歳を迎えるというその日。
突然、見知らぬ街の広場に佇んでいた。
そう、まるで艶やかで綺麗な黒髪を持つ彼女のように──。
どのくらいその場に立ち尽くしていたのか。
「どうかした? お嬢さん」
不意にかけられた、知らないのに知っている言葉。まさかと思いながらも、そんなことないと慌てて否定する。
「お嬢さん?」
再び聞こえた言葉に、嫌な確信を振り払いながら振り向けば、驚く私以上に驚いた顔をした、背の高い男の人がいた。
まるで軍服のようでいて制服のような、たとえていうなら騎士服のような、白を基調とした詰め襟姿。その上に羽織った花婿のような白のフロックコート。どう見ても日本人じゃない。
「どういうことだ……」
再び聞こえた言葉に確信する。ここは日本でも地球でもないと。どこか考え込んだ彼に思わず声をかける。
「誰?」
意識することなくこぼれ落ちた言葉は、当たり前のようにここの言葉だった。そのことに少なからず驚く。声にするのは初めての言葉なのに、当たり前のように声になる。
はっとしたように私を見た彼が、慌てたように周りを見渡す。
「こちらへ」
そう言いながら羽織っていたフロックコートを私に羽織らせ、人目につかない広場の端に誘導される。並ぶと頭ひとつ半ほども背の高い彼の腰には、フロックコートに隠れていた剣がカチャカチャと小さく音を立てている。
「君は、もしかしてエルザ?」
振り返り様そう言った彼の言葉に、どう返せばいいのか悩む。
確かに私はエルザの記憶を持つ。けれど私自身はエルザではない。
「いや、エルザそのものではないことはわかっている。エルザとは髪の色も瞳の色も違う。だが、君は……エルザだよな」
彼からの問いかけのようでいてどこか確信めいた言葉。家族と医者以外知らない、自らの秘密を知られていたことにひどく驚き、思わず頷いてしまう。
「やはり。俺は、あーっと、領主の正妻の息子だと言えばわかるか?」
「あっ、わかります。でも……エルザはお目にかかったことはありませんよね」
あの領主には、正妻との間に彼には似ても似つかぬ優秀な息子が一人存在し、彼に愛想を尽かした正妻と共に王都で暮らしているともっぱらの噂だった。
その優秀な息子が、目の前にいる背の高い彼なのだろう。
「俺はリカルド。君は?」
「私は、有紗」
「アリサか。アリサ、ここがどこだかわかる?」
見渡すそこは、中央に噴水のある石畳みの大きな広場。どこかヨーロッパの田舎町にあるような、そんな雰囲気の石造りの街並み。一度だけエルザは見たことがある。
「もしかして、ここは……ガライ広場?」
「当たり。その格好を見ると──」
そう言いながら、服装を確認しているのか、上から下までじっくりと眺められた。まるで何かを見透かすようなその視線に、怖いような恥ずかしいような複雑な気持ちになる。
「──この辺りに住んでいるわけじゃないよな。どうしてここに?」
どう答えていいのかがわからなくなる。教えて欲しいのはこっちの方だ。思わず視線が落ちる。
「あ、あの、何って言ったらいいのか……」
目の前にある彼の騎士服のようなものに付いた飾りボタン。紋章のようなものが刻まれたそれを見ながら、しどろもどろになってしまう。
「気が付いたら、ここにいて……」
まるでそれは記憶にある黒髪の彼女のようだ。
「どういうことだ?」
それまでとは違い、言葉が鋭く聞こえる。見ればその顔も険しいものになっていた。その強い視線にたじろぐ。
「浚われてきた、わけではないよな?」
確認するように言われ、よくわからず思わず首を傾げてしまう。
「違うと思います。別の場所にいたはずなのに、本当に気が付いたらさっきの場所に立っていて……」
ほかに言い様がない。端から聞いていれば、それは不審人物極まりないだろう。
どこかほっとしたようにその表情を緩めたリカルドに、思わずこちらも肩の力が抜ける。
「ひとまず立ち話もなんだ。その姿も目立ちすぎる。俺と母上が滞在している宿に行こう。行く当て、ないだろう?」
確信したような言葉に首を傾げながら、こくこくと小さく頷く。
おそらく彼の言っていること、彼自身に関することは本当だと思う。
彼の騎士服のようなものついている飾りボタン、そこに刻まれている紋章は、たしか教会のものだ。教会に関わる人は嘘をつかない。ここではそれが常識だ。
頼れる人がいない今、嘘のない言葉に頼るしかない。こんなところで若い娘が一人途方に暮れていたら、間違いなくよくないことが起きる。ここは日本とは違う。
考え事をしていたせいで、歩き出すのが遅れた私の背に、リカルドの手がそっと添えられた。その手は、それまで男の人に感じてきた恐怖にも似た嫌な感じがまるでしない。そのことに驚いていると、添えられた手に少しだけ力が加わった。
「行くよ。すぐそこのラウーヤだから」
軽く背を押されるように歩き始める。
目立たないよう人目を避けながら、広場からほんの僅かな距離にある、この街一番の高級宿だと記憶しているラウーヤに連れて行かれた。
着せられた彼のフロックコートは、すっぽりと私の足元まで隠してくれる。真っ黒なタイツで素肌を隠しているものの、ここでは膝丈のスカートは目立ちすぎる。そんなことが当たり前のようにわかってしまう、そのことに何とも言えない気持ちになった。